無意識日記々

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こいのうただか、あいのうただか

「ヒカルにとって親とは常に愛情を注いでくれる存在ではなく、居て欲しいと乞い恋い焦がれる存在なのだ」ってのがまずは思いつく解答なのだが、この時点で既に乞い願うのが「実際の両親(が目の前に居てくれること)」と「(こんな親だったらいいな、という)理想の両親」に分岐する。結構手に負えないかもしれない。

見方を変えると、ヒカルには愛と恋の区別がない、なだらかに繋がっているのではという視点が出てくる。つまり、ラブソングで愛を歌える、と。

日本語のラブソングで愛を歌うのは難しい。日本ではラブソングといえば恋の歌だからだ。だからヒカルは今回、アルバムの冒頭でこう問うてきた。『Can we play a love song?』と。「私たち、ラブソングをプレイできるの?」と。

考えてみればこの一文、かなり謎めいている。なぜ『we』なのか。ヒカルだったら"I"じゃないのか。そう突っ込もうとすると動詞が『play』なのだ。"sing"じゃない。

これが「Can I sing a love song, again?」、「私、またラブソングを歌ってもいいかな?歌えるかな?」だったらすんごくわかりやすかった。リスナーに否応なく『First Love』を想起させるアルバムタイトル『初恋』の名の下にまた恋の歌、初恋の歌を歌ってもよろしいでしょうかというお伺いからアルバムが始まっていたなら、すぐに皆がついてこれただろう。そうではなかった。

"play"という単語で日本語で連想するのは「再生ボタン」かな? どうだろう。難しい所だが、「僕らはまた(宇多田ヒカルの)ラブソングをかけてもいいのよね?」みたいなニュアンスになるかな。

もう一方の"play"は、大体同じ意味だが"演奏する"、更に加えて"play a role"の時の"演じる"もそうだな。

再生するとか演奏するとか合わせて言えば「ラブソングを鳴らす」「ラブソングを響かせる」のような訳し方になるだろう。ここらへんまで来ると少しずつ曲調にフィットしてくる。

『Play A Love Song』は大胆なゴスペル調のコーラス隊を起用して話題になった。壮大かつ神聖、その上力が溢れ漲る様が表現されていた。高らかに愛を歌い上げている、という意味では、この『love song』は恋の歌というより愛の歌なのかもしれない。

歌い方というのは重要である。かつてアレサ"Queen-of-Soul"フランクリンは、男女の恋愛を歌っていても人類愛を賛美しているかのように聞こえた、という程にスケール感溢れる歌い方が特徴的だった。ヒカルが『Goodbye Happiness』でのシナジーコーラスから更に一歩踏み込んで楽曲の聖性を増すアプローチをとった事に関しては、終始留意しておいた方がいいだろう。


こんな事を書いてるとまた歌詞から『深読みをしてしまう君は不安と戦う』と突っ込まれてしまいそうだが、楽しいから構わない。