リズムにピッチついてるみたいな

今日の座談会、ヒカルがめっさ耳を惹く話をしてるのになりくんの返しがちぐはぐで広がらない…っ! 食いついて欲しかった…っっ!

特に、ヒカルが「メロディ」に関して『私からしたらリズムにピッチ(註:この場合"音程"の意味)ついてるみたいな感じ』と言ってるのに「メロディの次がリズムなのよ」って返しは何なのさ…! なのさっ!?

ここはヒカルの曲作りの基本中の基本なのだ。それを自分から話し始めてくれてるのに拾い切れていない。勿体無い。

ヒカルは「メロディ=リズム×ピッチ」だと言っているのだ。この感覚の豊かさと鋭さを端的に表現したのがかの名言「スネアの切なさ」である。普通は音程の変化によって感じられる感情の起伏をヒカルは純粋なリズムのみから抽出してみせる。それがどういう構造かを審らかにするのが今回の『私はメロディ自体をリズムとして捉えている』発言だ。まずリズムがあり、そこにピッチを付け加えて(或いは掛け合わせて、かな?)メロディが出来上がる。つまり、リズムの次がメロディなのだ。なりくんのまとめ方は雑である。

しかしこれは本当に興味深い。普通リズムは身体感覚と繋がっていてメロディの方が感情を司っている、と捉えがちだがヒカルはそうではない。リズムの中に既に切なさをはじめとした人間の感情が埋め込まれているのが察知される。もっといえばヒカルの歌の感情は身体感覚と直結しているのだ。心で感じる切なさに、身体で感じる切なさが繋がっているというか、そもそも同じというか。

ヒカルの表現するエモーショナルに説得力があるのは、その身体感覚があるが故か。そうやって導き出した切なさをメロディに託しきって生まれたのが『FINAL DISTANCE』『Flavor Of Life - Ballad Version -』『Prisoner Of Love - Quiet Version -』の3曲だろう。リズムから生まれてきたメロディを今度はリズムから引き剥がす。そこにあるのは身体感覚を超越した「神聖性」だ。上記3曲のもつ聖なる雰囲気は、個々の身体感覚から導き出された普遍性故であろう。用は精神生命体的な楽曲に昇華したと。

勿論それが気に入らない人も多かろう。どちらが優れているという話ではない。何がどうやって出来上がっていったのか、それぞれの歌は何であるのかを知るのに最適な視点がここにあると控えめに主張しているだけである。

何か、その前段の『plain』の話がここに出てくるべき予感がしているのだが、まだ私の中で繋がりきっていないのでもう暫く待つ。ホントこういう話から座談会始めなよ…。