無意識日記々

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Is it automatic ?

ヒカルの歌唱力について評価が分かれるのは表現力に重点を置くか技術力に重点を置くかに掛かっているというのが通説になりつつある、のなら嬉しい限りだ。例えば昨年末の紅白歌合戦MISIAが披露した歌唱力などはヒカルに望むべくもない。あの土俵で戦うのならば完敗だ。しかしMISIA自身は自らを宇多田ヒカルより優れたシンガーだとは断言しないだろう。カテゴリーの違いはよく理解している。宇野さんのお陰で98年デビューの歌姫は宇多田浜崎林檎aikoという感じになっているかもしれないが当時本当に時代の扉を最初にこじ開けたのはMISIAであり彼女がデビューアルバムを200万枚売って“ああいう音楽”の存在をFMラジオリスナーに植え付けていなかったらヒカルの“Automatic”が当たっていたかどうかは定かではない。今から聞くと大雑把な物言いに見えるかもしれないが、200万枚だ750万枚だとかいう世界では括りはダブついている方が正確だろう。紅白のような視聴率の非常に高い番組でMISIAの存在が印象づけられたのは慶事であり1998年組の20周年イヤーを締め括るには丁度よかったのではなかろうか。

話を戻そう。ヒカルの歌唱が表現力に特化しているのは今に至ってかなり周知されてきているとは思うが、それでもやはりあの生放送を迎える時の視聴者の「不安な気持ち」は拭い去られていない。こちらが心配性なだけというのが9割なのだが残りの1割はヒカルに原因がある。ヒカルは天才過ぎるが故に練習量が極めて少ないのだ。

初めてテレビで『誓い』を披露した時その練習量の少なさに吃驚した。歌唱が拙かった訳ではない。その全く逆で、僅かなリハーサルでそこまでの完成度に仕上げてくる事に驚いたのだ。

練習量の多寡は歌唱時の集中力で測られる。少し直感に反するが、歌唱本番時の集中力が低ければ低いほど練習量は多い。練習量が十分であれば歌唱パターンが“身について”いる為、何も考えずに歌い始めれば後は自動運転で放っておけばいいからだ。ギターを弾きながら歌っている人に「器用だねぇ」と褒めると「指が覚えてるから勝手に弾いてくれる」と返されるものだが、それは歌唱自体にも言える事。沢山の練習で人は自動で歌えるようになる。

『誓い』を歌った時のヒカルは全く自動運転ではなかった。歌唱のポイント毎に集中力を発揮して見事に歌い切ってみせたのだ─とかなんとかいう話からまた次回。