無意識日記々

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「上司が部下に言うような感じ」?

ヒカルが自らの歌詞を翻訳して世に出すのはこれが初めてではない。2004年、英語アルバム『EXODUS』をリリースした際に『Animato』の英語詞を日本語に訳してブックレットに掲載している。その時はつまり[英語→日本語]。それから15年経った今回は[日本語→英語]である。

その『Animato』の訳詞もまた潔いものだった。作詞者本人であるからして翻訳時の取捨選択(元の歌詞のどの部分を残してどの部分を切り捨てるか)に関して遠慮みたいなものが一切無かったのだ。微妙なニュアンスであれクスリとくる言い回しであれ躊躇いなくバッサリ切っていた。爽快なくらいに。

その思い切りのよさはこの『Laughter in the Dark Tour 2018 Netflix Version』でも小気味よく発揮されている。例えば1曲目『あなた』の一節を例にとってみよう。

歌自体はこうである。

『一日の終わりに撫で下ろす

 この胸を頼りにしてる人がいる

 くよくよなんてしてる場合じゃない』

前も触れた通り、「胸を撫で下ろす」という必ずしも実際に胸を撫でる訳ではない即ち慣用表現としても使うこの言い回し。その中から現実の「胸」を抽出してきて「胸を頼りにする」という表現にそのまま繋げる捻りの利いたアイデアが光る一節だ。ヒカルはここをどう訳したか。

『This body that gives out a sigh of relief at day's end,

There is someone that depends on it

It's no time to be depressed』

─こうである。この英文を元に直訳すると、

『一日の終わりに安息の溜息をつくこの体。

 それを頼りにしている人がいる。

 落ち込んでる暇は無い。』

こんな感じだ。『胸』を『body/体』にしてしまってる思い切りのよさな。更に歌から漂ってくる“胸を撫で下ろしてから一息ついていや待てこの撫で下ろした胸によりかかってくるヤツがいるよね”っていう、なんて言うんだろ、徐々に気づいていく感じとかがほぼ捨象されている。更に『くよくよなんてしてる場合じゃない』と歌う時の“いやいや、うん、疲れてるけどそこからもういっちょ頑張ってやるか”みたいな「少しずつ感情がわき上がってくる感じ」も薄い。“It's no time to be depressed”って上司が部下に言うような感じ。かなり冷たい。同輩なら叱咤激励に聞こえるかな。そんな風。

斯様に、「兎に角まず意味が伝わるように」というかなり質実剛健な方向性で英語訳字幕は構成されている印象だ。今後もまた何か目についたら取り上げてみたいと思ってるぜ。

漸くNetflixの英語訳のお話

ヒカルの英語の歌の楽しみ方を身につける為にはまず日本語の歌の英語訳から入るのも悪くない。という訳で漸くNetflixの英語訳字幕の話をし始めようかなと。

「日本語の歌の英語訳」の何がいいって、既に何を歌っているか知っている事だ。日本語をほぼそのまま英語に訳しただけだから特に新しい情報が介入する余地はなくただひたすらに「この意味の日本語はこの書き方の英語になるのか」という納得を繰り返していくだけで済む。非常にわかりやすい。

そこで大事になってくるのが訳者の仕事ぶりだが御存知のように今回のNetflixの英語訳字幕は宇多田ヒカル自らが手掛けたものだ。20曲の翻訳を書き下ろすのは中々に大変な作業だろうが、ベースになっているのはヒカルが昨年のツアー中に英語圏の人たちばかりだったバンドメンバーに配った英語訳の歌詞。全編ほぼ日本語のセットリストの歌の歌詞の意味を把握した上で演奏して欲しいという意図でその時に書き下ろされたものだ。それより以前のツアーでも英語圏のメンバーはいたことがあるのでその際にもし同じように英語訳を書いていたとすればそういう昔の曲に関しては昨年の時点で既に流用だったかもしれないけれど。兎も角、Netflixの為にまるごと書き下ろしたのとは少し違うことから、ヒカルも対応可能な仕事量だったのだと思われる。もっとも、画面の字幕に出す文章にする為の変更は加えたろうし、それは結構な労力だとは思うが。

その前提に立ってみるときに留意すべきなのは、様々な条件や制約をもって生まれてきている日本語の歌詞を、そもそも歌の内容を知らない人に伝える為に書き下ろされたということは、非常に単純に歌詞の意味をそのままストレートに伝える訳詞になっている可能性が高いという点だ。歌詞の持つ条件や制約というのは、メロディの尺に合わせるとか音韻を踏むとか感情表現の為の母音の選択とかそういった要素だ。英語訳を書くにあたってそういった要素に起因する歌詞の選択結果はそもそも捨象されていると捉えるのが妥当だろう。

従って、英語訳を見ていくというのはかなりシンプルでストレートな作業になるのではないかという予測が立つのだが…果たして実際はどうなのか。少しずつのんびり見ていくことに致しましょうか。

「ちゃんと確かめる」。これだけだ。英語の歌を楽しもう。

ただ、ヒカルの場合日本語で歌う事が駄目になっても英語で歌えばいいからそれについては有り難い。恐らくフランス語も習ったのだろうしイタリア語もいけるかもしれない。中国語はどうだろうかな。日本で検閲が進めば、日本で歌を出さなくなればいいだけの話だ。

「日本語の歌でないと寂しい」というファンが多数派なのは百も承知だ。しかし、そこまで検閲が進んだ社会になっていれば宇多田ヒカルが歌ってようが歌ってまいが気にしてる余裕なんて無いんじゃなかろうかね。末期、或いはもうダメだろう。

絵空事と空笑いできる人は幸福だ。ヒカルの歌がなくても大丈夫だ。

公権力が検閲する前にまずレコード会社からの自粛要請があるだろう。その時点でヒカルは離れる。そうなる前に離れているだろうかな。移籍ってより、日本で仕事しなくなるよね。海外のレーベルからなら日本語の歌を歌えるかもしれない。問題はそれが輸入できるかだ。

21世紀はそこでインターネットの話になる。現実にインターネットに規制を掛けている国が存在するのだから日本だってそうならないとは限らない。これも杞憂と言いたかったが、ブロッキングが議題に出てる時点でもう既に端緒は開かれているのだ。

公権力は恐らく現状を追認するだけだ。まず民衆が圧力をかけてくる。検閲なんてその後でいい。官僚だって責任を取りたくないだろう。大衆を相手に商業音楽を作ってきた身としてこれは厳しい。

流石にインターネットが規制され始めたら我々も移住や亡命を考えるかもだがそうなってる頃には自由な行き来など出来なくなっているだろうな。

今回の「表現の不自由」の話で、如何に自分の感覚が麻痺させられているのかに対して無自覚なのかを痛感した。「ちゃんと確かめる」。これだけだ。昔卓球の全日本選手権女子ダブルスの話をしたのを覚えてる人はかなりの有り難い読者だ。あの時に、検索すればすぐ出てくる世界ダブルスランキングを誰も調べようとしなかった事態に対して危機感を述べた。あの時予想したより遥かに速いスピードで事態は悪化している。ここから更に加速されれば本当に洒落にならない。その時自分が正気を保っていられるかどうかすらわからない。

なので、シンプルに、ヒカルの英語の歌の楽しみ方も身につけておこう。正気を保つ為には、それがいちばんな気がする。その時聴ける状態にあれればだけどね。ヒカルの歌は、歌詞の意味がわからなくても何か響いてくる筈だから。

「検閲」=公権力が表現物を取り締まる事

昔からこの日記で政治的話題を取り上げるなら「表現の自由」についてだと言ってきた。理由は様々だがひとつ具体的にわかりやすいのは「作詞家宇多田ヒカルの活動に制限がかかる虞(おそれ)がある」という点だろう。

私がTwitterでもフォローしている星井七億氏は百合姫でも連載を持つ文筆家だが、彼の昨日のnoteを読んで暗澹たる気分になった。詳細は省くが、今の日本の芸術系(なんだそりゃ(笑))はここまで表現に不自由してるのかと。貧困が叫ばれるのは経済だけではなかったのだ。

宇多田ヒカルは邦楽市場に於いてどメジャーなので実際の歌詞は政治的にであれなんであれ物議を醸すような内容からは程遠い。本人もそういう騒動に巻き込まれるのは本意でない人なのでそもそもそんなことテーマに選ばない。人と争うことを極力避けてきた人なのだ。人と争うどころか競うことすら躊躇う。そんなことをしなくても表現活動においては創造的であり続けられるよと自ら体現するかのように。

なので『Kiss & Cry』の『娘さんのリストカット』という一節ですら自粛する。ヒカルの立場ならそう歌えるならそう歌っただろう。なので忖度ではなく、単純に職業音楽家としてCMソングのクォリティに拘った結果でしかない。レコード会社に言われたとか日清から指摘があったとかではなかった模様。

寧ろ今迄で最も「検閲」に近い行為があったのは『ぼくはくま』だろう。『前世はきっとチョコレート』という一節にクレームが入った。「前世」というワードがマズかったらしい。結局画面での歌詞表示を『ゼンセ』とカタカナにする事で折り合ったそうだが、それも通らなかったら『ぼくはくま』を「みんなのうた」から引き上げるつもりだったと。こどもも楽しむほのぼの切ない童謡の名曲が世に出る過程でこのような事態があったというのはちょっと引く。

この時はまだ折り合えたからマシといえばマシだ。しかし今後このタイプの事例が加速してこないとも限らない。七億氏の「あいちトリエンナーレ」展示物レポートを読みながら、この排他的な空気が邦楽市場にまで来るのも案外近いんじゃないかと予感したのだが、今度ばかりはこの予感が的外れに終わる事を願いたい。でも気がついた時には大抵既に手遅れなんだ…。

という訳で『Fantome』&『初恋』の話に移ろう

スタンダード感と感動は別物と認識している。先に挙げた『Letters』のように、斬新さや独自性もまた感銘や感心や感動を与える。心の動きの大きさはまた別なのだ。

『Fantome』と『初恋』の与える感動は桁が外れている。『桜流し』や『真夏の通り雨』に初めて相対した時の身震いするような感銘は最早恐怖に近いものだったし、『初恋』や『誓い』のもつ力強さはそれこそ誰にも真似できない迫力だった。『桜流し』こそ演奏されなかったものの、それらの楽曲を並べた『Laughter in the Dark Tour 2018』後半の凄まじさは映像商品で知られる事となったと思う。今迄とは更にまたレベルが、次元が違う。

しかし、それとこれとは別なのだスタンダード感云々という話は。

花束を君に』を初めて聴いた時に、まぁ随分まわりくどいメロディだなと思った。その中からうまく着地点を見つけて纏める手腕は見事なもので、やはり作詞家・作曲家としての経験と知能の違いを感じさせたが、故にもっとこうダイレクトにシンプルにならなかったかと─そうね、今聴いててもそう思う。それがこの曲の個性なのだからこの曲自体は何も悪くないしこの曲があったから『Fantome』はあれだけ認知されたのだしそれに関しては何の文句もないのだが、例えば"前作”で同じ立場(アルバムの切り込み隊長)だった『Goodbye Happiness』が過去最高クラスのスタンダード感を出していた事を思い出すと、回された役割に照らし合わせたら少し物足りなかったかなと。

真夏の通り雨』の方は、特に歌詞で見せた「日本語の歌全体としの新境地」が凄まじ過ぎてもうこの曲はそれだけで平伏するしかないのだが、メロディ自体はいわば"指癖"で、それさえもこの曲の凄味の為には必要な事だったのだが、だからこそこの曲は通好みには成り得てもスタンダード・ナンバーとはちと違うなと。

そうなるとまず。『Fantome』でスタンダード感を出していた曲といえば『桜流し』、そして『道』かなと。アルバムの最初と最後。『桜流し』の「もうどこも変えたくない』感は異常で、個人的には未だにテレビエディットに恨みを持っているのだがそれは置くとしても、あれですよ、曲が重すぎる。どれだけスタンダード感を出していてもこういう曲調を"Pops"と呼ぶのには抵抗がある。大好きだからこそ余計そう思うんだわ。

『道』の方は歌詞もメロディも文句なしなんだが、贅沢を言わせて貰えればイントロが弱いのよね。今はもう条件反射的にこの出だしが耳に入った時点で上機嫌になるのだけど、今迄のアルバムの1曲目を考えると結構地味な感じがする。まぁ、ホントただの贅沢なんだけどスタンダード感を考えた時にこの地味さは結構効いてくると思う。

繰り返しになるが、だからといってアルバムから与えられる感動が少なくなる訳ではない。もうひたすら単純に「スタンダード・ナンバーっぽさ」即ちスタンダード感の観点から見た場合はこういう感想になるよというだけの話なのだ。『Fantome』はそれまでのアルバム以上によく聴いた。それだけに落ち着いて眺めた時にそういう見方も出来るなと思っただけなのですよ。惚れ込んだ感情に微塵の変化も無いのです。