無意識日記々

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嗚呼、懐かしや─『がんばれ、地球!』

アメリカとイランの緊張状態についての報道が沢山。すわ戦争かという話になっている。あたしは国際情勢については疎いので特に何をコメントする気もない。

ヒカルが他に類を見ない怒りのメッセを投稿したのは2003年のイラク戦争の時だった。日本の同盟国が吹っ掛けたので国内では穏当な論調が多い中、キッパリと戦争への嫌悪感を表明したヒカルは当時ですら異質であった。そこまで激昂するかと。

楽家がそういった発言をするのは様々な危険を伴う。活動に支障が出るかもしれない。特に当時のヒカルは年間3位を記録する大ヒット曲『COLORS』をプロモーションし終えたタイミングで、皆が認める“国民的歌手”のポジションに在った。それで忌憚無く怒りをぶちまけたのだから……無謀な迄に度胸があったなぁと。なんだかちょっと当時の自分の“Mail To Hikki”を謝りたい気分になっている。嗜めたのだ。不覚であった。17年前かー。それはさておき。

今の日本の情勢はその17年前より遥かに悪い。今あんなメッセージを書こうものならそれはもう敵対的な議論しか起こらないだろう。分断は目に余り、遣る瀬無さに敵おう筈もない。

『戦争の始まりを知らせる放送も

 アクティヴィストの足音も届かない

 この部屋にいたい もう少し』

息子が出来てどう思っているかは、『あなた』で歌われている通りだろう。あれを逃避と読む人も多かろうが、あたしは寧ろ覚悟の歌と読んだ。最早逃れられないのだ、という。

ヒカルは今回の、2020年にあっては何も言わないかもしれない。しかし、核となる感じ方、考え方に変わりは無いだろう。だからもう日本に住んでいない。勿論それだけが理由ではないのだろうが、居ても仕方が無いという結論は結局動かない。アメリカも、無理だろう。だからって英国が正義な訳ではないのだろうけど、きっともっとずっと自由なのだろうな。また来日した時にこの息苦しさを歌ってくれたらなと思ってみたりもしましたよっと。

作詞家タイプ分け

一方で年末にはNHK井上陽水特番にコメント出演。短い時間ながら興味深い発言を連発していた。

特に「作詞家の分類」というのはそもそもテーマ自体を私が考えた事がなかったので目から鱗。そんな風に捉えるんだなと感心した。

テーマ自体を考えた事がなかった、というのは分類したくなるほど他の作詞家に興味を持った事がなかったからだ。

例えば──自分はお笑い番組なんて「THE MANZAI」と「M-1グランプリ」くらいしか観ない、即ち年間数時間とかしか接触しないんだけど、パッと見たらすぐに分類が始まる。皆個性的だからだ。それぞれのスタイルの位置づけを頭に入れながら内容を把握していくのは楽しい。

同じことが、年間その数十倍時間を割いている日本の邦楽勢にも起こっていいんだが、そこまで感じさせてくれる作詞に出会う事はない。まぁ退屈なんだよ。ヒカル1人の作詞を相手してる方がずっと面白い。

ヒカル自身は滅多に邦楽は聴きそうにない雰囲気が未だに強いのだが「作詞家のタイプ分け」という思考の枠組みをお持ちなら少しは聴くようになったのだろうかな。もしかしたら、作詞家タイプ分けに日本語も英語もない或いは日本語と英語に共通するものがあるのだろうか。うーん、別物な気がするなぁ。

ひとつ考えられるとしたら、プロデュース業に携わった事か。THE BACKHORNとのコラボレーションや小袋成彬のプロデュースを通してひとの作詞術を客観的に捉え直す機会があったのかもわからない。プロデューサーはこれから売り込むマーケットの空気を知ってる方がいいからね。それはセルフ・プロデュースにも言える事だけど。

少なくとも、そういった視点を通してヒカルが自分自身の作詞術に「同業他者との関係性の中での個性」について幾らか意識的であると知れたのは収穫だった。今後誰か他の人の作詞を例に挙げて自分の作詞術の解説をしてくれる事もあるかもしれない。その時にちゃんと理解できるようにこの枠組みをある程度意識していきたいなと思ってますよっと。

アサ芸プラスの記事を斬る!

マツコの知らない世界」への出演はファン以外にも随分と話題になったようで、各方面Web記事でも硬軟取り混ぜて様々な切り口で取り上げられている。

これだけ沢山記事が出ると当然内容も玉石混淆、興味深いものからそうでないものまで色々と出てくるものだが、その中でも出色の酷い内容だったのがアサ芸プラスの記事だ。百聞は一見に如かず、ぐたくだちまちまやるより該当箇所をまるごと引用しておこう。

宇多田ヒカル、「マツコの知らない世界」で見せた胸の成長で気になる男関係!》と題された記事で、2020年1月6日 17:58に配信されている。

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引用元URL:https://www.asagei.com/excerpt/140637

(前略)

 そんな、ネット上では〈永久保存版!〉とも評されたトークの一方で男性視聴者を釘付けにしていたのが、宇多田のボディである。

「黒が基調のゆったりめのワンピースで登場した宇多田でしたが、よく見るとレース部分がかなり多く、胸元などは、その下の布地部分がかなり開いたもので、ボリューム感たっぷりの色白バストが顔をのぞかせていたんです。かつて彼女は高校時代のバストについて85センチのDカップだったことを明かしているのですが、子育てを経てさらに膨らみが増しているように見えましたね」(前出・テレビウオッチャー)

 一昨年4月には二度目の離婚をしていることが伝えられている宇多田。番組では恋愛について「すごくいいものだし、してはいたい」とし、何より7度の結婚と離婚を繰り返した恋多き母の遺伝子を継いでいるだけに、今、彼女のバストを成長させている男が気になるところだ。

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推測ばかりで塗り固められた真実の匂いがひとつもしない内容である。本人に確認をとったのだろうか? するわけないか。タブロイドならではの無責任な文章だといえよう。

とりわけ私がいちばん怒っているのは最後の箇所だ。散々ヒカルの肢体を絶賛するのは仕方がない。うむ、仕方ない。だがな、だからと言ってなぜ「今、彼女のバストを成長させている男が気になるところだ。」などという話を書く必要があるのか。不見識も甚だしい。よく考えてもみたまえ! 

な ぜ ヒ カ ル の バ ス ト を 成 長 さ せ る 人 を 男 だ と 決 め つ け る の か ! ? 女かもしれないではないか!!!! 

この記事は前時代的なジェンダー観によって今のヒカルの恋人が女性であるかもしれないという麗しき可能性を全く考慮に入れる事もなく排除している。まことに、まことに嘆かわしい。これがタブロイドに携わる者の書くべき文章なのか!? ほんの僅かな可能性であっても「宇多田ヒカルは少なくともバイ・セクシャルではあるかもしれない」という希望を最後の最後まで捨てずにおくのが物書きとしての矜恃というものではないのか!? ここまで下世話な記事を書くのであればそういった正しく広い視野を持ちあらゆる望ましいケースに備えるべきだろう。修行が足りん!!

……だが、考えようによっては、業界随一に下世話なタブロイドですらこの認識なのだから、もし今仮にヒカルの恋人が女性であった場合、どのメディアも一切気づかずにスルーし続ける事も有り得る訳だ。すればヒカルも誰の目を気にする事もなく自由に恋愛が謳歌できよう。何事も前向きに捉える事で輝かしい未来が見えてくる。誰だレース部分の隙間に輝かしい未来を見出そうとしているのは。うむ、それは仕方ない。許そう。それも、悪くないだろう。うむ、うむ。

ヒカルにはこのまま気兼ねなく心身に自由を与える恋愛関係で得られる福音を享受して毎日を充実して過ごしてうただきたいものだ。その為には下世話な記事が的外れなのは歓迎すべき事態なのだった。嗚呼、今宵の私はゴキゲンなのでした。

スタイリストさんの出番が増える年に??

バラエティー番組出演で告知無し。「その為だけにロンドンから来たんか……」という呆れ返りも何のそのな宇多田さんだが昨年中頃から折を見て仕事をしている風なのはツイート等からも明らか。しかし新年一発目からこうやって外してきたことで、今後どんな活動をされようが「また透かされるのではないか」という疑心暗鬼が付き纏う事となった。きっと思う壷。

だが今年は「6月27日にシンエヴァ封切」という固定ラインが既定ライン。これに合わせて他のスケジュールも埋まっていく筈。となると例えばその前に1曲挟んでくるなら3月下旬あたりが穏当かとか考え始めてみたくなるんだが最近そんな風に捉えてもしゃあないのよね。5年前の(あぁもうそんな表記になるのか)復帰だって『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲同時リリースからだったし『大空で抱きしめて』と『Forevermore』のインターバルが3週間だったりツアー初日と最終日にリリースが発表されたりと結構やりたい放題なのだ。予測しろという方が無理。

勿論これはシングル曲の発表がフィジカルに拘らなくてよくなったからで、前に書いた通りエヴァ関連の楽曲はグッズ扱いでフィジカル・リリースされるだろうが他の新曲はもうダウンロードとサブスクに流して終わりな訳で。

で、梶さんが常々強調しているようにサブスク時代のキュレーションは(っていう言い方自体が既にサブスク世代なんだか)リリースした後に聴いて貰えるかが鍵になってくる訳なので、今までとはリリース時のテンションみたいなものが変わってくるわな。出来れば継続的な露出が稼げる媒体とコラボレーションしたいところ。

となると、性急だけれど、映像配信系でどこかやるとこない?という発想になる。昨年は『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品をiTunesNetflix、スカパー!で配信したが、次はいよいよヒカル自身が乗り出すような事はあるだろうか? AppleTV+とか? やり方はサッパリ思いつかないものの、新年一発目の仕事が(といっても収録は去年だけどね)地上波テレビのバラエティー番組だったのだから結構何でもありそうな気がする。寧ろ今回の出演が露払いな可能性もあるわな。

今や地上波テレビでも映像配信企業のCMは珍しくなくなった訳でおじさんなんかよくそんな商売敵の土俵で勝負し合えるなと思うが、ヒカルさんが今年映像配信系との仕事を増やしてくるというのなら無関心ではいられなくなる。では手始めにAbemaTVで72時間宇多田ヒカル三昧を……(なんか色々混ざっとるな)。

ぎこちなさにニヤニヤがとまらない

ヒカルがテレビ番組に出る度にああいう空気になる。淀んでるのでもとごってるでもない空気が滑らかに流れない。出演者もスタッフも、しかし、その空気が嫌な訳じゃない。あれいつ見てもニヤニヤしちゃうね。

なんでああなるかというと、ヒカルに似た人が居ないからだ。番組を回すパーソナリティ・司会者の皆さんにはセオリーやパターンというものがある。二枚目系の女優さんならこう、コミックバンドのヴォーカルならこう、みたいなレシピを山のように携えていて、その上で本番ではアドリブを交えながら臨機応変に対応を変えていく。マツコ・デラックスという人は、そのレシピのスペクトルが異様に広い。「マツコの知らない世界」もそれを活かしているのだろう、有名人が来ようが文化人が来ようがド素人が来ようがちゃんと番組を成立させる。神業っすな。

だがそんな人でも宇多田ヒカルは持て余すのだ。“こういう人”が他に居ないからである。今までの人生経験が通用しない。特にマツコ・デラックスはヒカルと初共演だったろうから手探り大変だったろうね。

バイリンガルだから帰国子女だからシンガーソングライターだからといった定型的思考は全く当てはまらない。宇多田ヒカルに相対するには宇多田ヒカル本人に慣れる以外無いのだ。慣れてくればまぁなんとかなるっちゃあなる。歌番組も何度も出演したものはこなれたり馴染んだりしていた。

あのあやふやな空気を醸成するのにもうひとつ、「リスペクトが強い」というのも響いている。芸事に携わる者なら宇多田ヒカルの偉大さは痛い程よくわかっている。ぶっちゃけ巨匠然として偉そぶっててくれた方が恭しく敬い易いところなのだが勿論ヒカルはそれをさせる気が無いので全体的に遠慮がちな空気になっていく。

これも慣れれば違う。タモリも最初に会った頃はミュージシャンとしてのリスペクトがほんの僅か前に出ていたが、途中からは慣れてきて「その表情になるのは吉永小百合と会ってる時だけ」というデレデレの緩んた顔で相手するようになった。正解ですわね一義さん。

マツコもそのうちデレデレになればいいと気づいてくれたらなんだけどあのキャラだと難しいのかなー。井上陽水なんか最初っから「イタリアンの味が分からないくらい緊張した」と奉る方向で来ていて今回(の年末の特集で)も「歌う人が違うと云々」とお手上げ降参状態で皮肉っぽく絶賛していた。流石に同業者だと勘が鋭い。陽水がこんな状態になるのは生きてる人だとあとはポール・マッカートニーくらいだろうな。

こほん。要は、今回の出演は「お初の取り合わせ」だったので、久々にあの「ぎこちない感じ」が楽しめて笑えたという話。松本人志が初対面で「おかきとかも食うんや」とポツンと言ってその距離感のわからなさを絶妙に表現していたがあれからもう20年以上経った今現在でも似たような空気を味わえるとは恐悦至極。若いファンもああやってバラエティーに出るヒカルを新鮮に眺めてくれたかな。

また次のテレビ出演ではお初の人と絡んでみて欲しいものだ。たまには「宇多田?誰それ?」みたいに振舞ってくれる人とかとも見てみたい。まーいちばん面白いと思うのは紀子さんちの佳子ちゃんとなんだがそりゃ無理か。絶対跳ねると思うんだけどねぇ。