無意識日記々

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Locked in London

あらあら、ロンドンで感染症対策が強化されるのか。「屋内で別の家族と交流することを禁ずる」と。これ、スタジオにミュージシャン招いて録音するのも引っ掛かるのかな。ヒカルが作業中だったら打撃だな。

日本ではもうGoToなんとかキャンペーンで大々的に消費喚起策が励行されててもう経済重視にシフトしているようにみえる。政府といっても一枚岩じゃないんだろうし組織の中にも様々な意見があるんだろうが、そのいがみ合いに折をつけるでもなくそのままバラバラに政策が出されている状況。もっとも、感染症があろうがなかろうがそれは前からのことだけど。

もしヒカルが東京に住んでたらどう違ったのだろうなぁとは思いたくなるくらい、英米欧と日本では状況が違うらしい。これも、しかし、もし東京に暮らしてたら5月の5週連続インスタライブはまず間違いなく行われていなかった訳で、それは怪我の功名といえたのかなとは思うが。日本だと部屋の間取りだけで場所が気取られるかもしれないからな……どこに特定の為の情報が紛れ込んでるかなんて素人にはわからない。ハエ一匹でいいのかもしれない。(お前ホントそのネタ好きだな)

これが次作の作風へも大きな影響を与えるだろうことは想像に難くなく。というのも、これはテレビで放映されたことだからもう広く周知の事実になっている訳だが最近のヒカルは他のミュージシャンたちとのコラボレーションの中で音楽を生み出していく過程を楽しみつつあるところで。自身のスタジオ作のみならず、THE BACK HORN小袋成彬と共同プロデュースしたり椎名林檎とのデュエットのやりとりをしたりとまぁこちらもアウトプットが多様になって楽しませて貰ってる。

それが、このように「別の家族との交流禁止」とかいう状況になってくると、また昔のように、布団を被って鼻歌をMDに録音するようなひとりでの作業に戻る事になる訳で、はてさて、それがどうサウンドに影響をしてくるか。これは注視したいところでありまして。

といっても、その違いが実際にわかるかというと、これがあんまり。あたしもテレビを観るまで『夕凪』があんなにみんなのサウンドを取り入れた曲だなんて思っていなかったので。『残り香』がヒカル単独のサウンドというのもわかってなかったし。言われてみればというところですが。

なので、こんなこと書いといて何なんだが、インタビューでヒカルがコメントするまで、その、感染症禍下での作風の変化って、こっちではなかなか読み取れないんじゃないかななんて思うところでありましたとさ。いやしかし、どうなるんだこれ。くれぐれも、ヒカル&ダヌパと周りのみんなが感染しないように祈るしかないか。周りは地球サイズで宜しく。

メタ・メタモルフォーゼ

ヒカルの歌詞は、Aメロからの歌い出しはまず視覚情報から入る事が多い。

例えば『In My Room』では『火曜日の朝は廊下で』、『Automatic』では『七回目のベルで受話器を取った君』、『For You』では『ヘッドフォンをしてひとごみの中に隠れると』、『Forevermore』では『確かな足取りで家路につく人が』、『大空で抱きしめて』では『晴れた日曜日の改札口は』という風に、まず出だしで情景や風景から切り込んでいく。

そういった楽曲たちもサビに至る頃には『戦うのもいいけど疲れちゃったよ』『ドキドキ止まらない』『君にも同じ孤独をあげたい』『愛してる 愛してる それ以外は余談の域よ』『天翔る星よ 消えないで』という風に心境の吐露に変化しているのだ。まずは見た目という誰もが理解出来るところから話を始めて内に秘める思いや願いを届けていくという構造をもった曲が幾つもヒカルにはある。

これが「歌詞」なのだ。前回述べたように、音楽というのは心が共振共鳴するかどうかが肝要である。しかし、いきなりメロディーに載せて秘めた思いを告げてしまえるかというとなかなかそうはいかない(そういう歌もあるんだけどね)。そこで、まず視覚的で、言うなれば当たり障りなく理解出来る所から話を始めるのだ。これによって間口を広くとって人々をその歌の世界に引き込んでいく。

これは、ただ歌を聞かせるというより、リスナーの皆さんを、視覚情報に重きを置いて人と優劣を競ったり見栄を張ったりといった普段の日常モードから、自らの心の声に耳を傾けるモードへとメタモルフォーゼを起こさせる作用がある。『In My Room』ではそこのところを直接『フェイクネイル カラーコンタクト エクステンション 髪にかざって フェイクファー身にまとって どうして本当の愛捜してるの?』という風に歌っている。虚飾に、見た目に気を取られるより自分の心に聞いてみなよという風に。これは、人々を「歌を聴くモード」へと導く方法論になっているのだ。ちょいメタい。

これが「歌詞」なのだ、と言ったのは、世界の他の部分と音楽を一旦相対的に目で眺めた後にしっかりと音楽の在り処を示しているからだ。音楽とともにある人々への言葉。それが歌詞でなくて何であるのかと。

この構造によってヒカルはリスナーに非常にプライベートな共感と心酔を生じさせている。その親和性とは……って、なんだか話がややこしくなってきたので今夜はここらへんで打ち切るかな(笑)。Aメロが見た目でサビが心の声だってわかってくれればそれでいい話だしなこれな。

外の比較と内の共鳴

前回、行動の基準や価値観を内側に置くタイプの代表として音楽家を、外側に置くタイプの代表のして競技選手を例に挙げた。しかし、嗜好性を軸にするなら音楽家に限らず表現者やクリエイターは大体そうだろう、と述べることも出来る。

であってもその中でも音楽家と強調する理由に触れたい。

価値判断を内に置くか外に置くかというのは、共感と比較という言い方も出来る。

外の価値判断基準の基本は比較だ。どちらが速いかとか長いかとか大きいかとか多いかとか、二つのものを比べ合わせる事で価値をはかる(三つ以上の比較は二つの比較の比較の組み合わせだ)。棒Aと棒Bのどちらが長いかはAとBを並べて見ればわかるし、走者Cと走者Dのどちらが足が速いかはゴールテープをどちらが切るかを見る事ででわかる。二つ以上のものを並べて見比べる事が外の価値観の基本だ。

ところが、「音」の比較は難しい。特に片耳でとなると至難の業だ。視覚による比較は片目でも十分に行えるが、音同士というのは常に時間をずらして鳴らさないと比べられない。棒Aと棒Bを並べて見比べるように音Eと音Fを同時に並べて鳴らしたらEとFの和音(或いは不協和音)にしかならないからだ。時間をずらした時は必ず記憶というバッファを介在することになるし、そうでなければ大抵の場合はそれをグラフや数値といった視覚情報に変換して比較する。比較が得意なのは視覚であって聴覚ではないのだ。

故に「音」を通じた価値判断はその共鳴具合にかかってくる。お互いに響き合うかどうか。音楽が鳴らされた時、それと反応するのは他の第二第三の音楽ではなく聴き手の心だ。それが共鳴すればお互いに惹かれ合うし、うまくいかなければ離れ合う。これを大抵好き嫌いと呼ぶ。音を介して世界と繋がる時、好意や嫌悪感といった価値観がキーとなってくるのだ。なんか苦手な音がするから逃げよう、みたいなね。

つまり、視覚、目に見えるものを基準とする人は他者より優ろうという外の価値観を重視しがちだし、聴覚、耳で聴こえるものを基準とする人は嗜好性という内の基準を重視しがちになる。論理的帰結であって現実にどうかは別だが。

実際、この度iPhone12が発表になったが、セールスポイントとしてニュースになるのはカメラの話ばかりである。お前もともと音楽プレーヤーiPodの発展形やろがい、とは思うものの、音楽プレーヤーとしての新機能については殆ど触れられない。新製品として、過去のiPhoneや同時代の他社製品より優れた所をアピールする時には視覚でわかる要素を押し出した方がわかりやすいからだ。いや実際にもう音楽プレーヤーとしての進化を諦めているというのが真実かもしれないが、それもつまり、ガジェットに求められるのが市場競争力、勝ち負けである事の帰結なのかもしれない。

そういう話を踏まえた上で、音楽家宇多田ヒカルが作詞面でその特性を活かし切っているという話をしたかったのだがこの前フリだけで長くなってしまったので続きはまた次回のお楽しみ。

常時必勝追求の嗜好性

楽家向きの性格の要素のひとつに「好き嫌いで行動する」というのがある。他人との比較で優ろうとか目立とうとするより、自分の感性で好きな物事に従事し嫌いな物事を忌避回避する。それを積み重ねて行くと作品が出来上がっていたりする。音楽家のみならずものを作る人全般に言える事だけども。

一方でその、他者を上回ろうという性格の人は例えば競技スポーツなどに向いている。ライバルに勝とうとか栄光を勝ち取り喝采を得ようとかいうのが行動のモチベーションになる。こういう人は自分の好き嫌いを抑え込んで苦しくて嫌な特訓などに耐えて鍛えて強くなり勝つ。

こういうアティテュードを音楽活動に持ち込むと、例えばあの人より速く弾けるとかあいつより売上が高いとか、人と較べて勝ち負けがわかる物差しで音楽に携わるようになる。ある程度までなら副次的なモチベーションとしてよく機能するが、度が過ぎるとただ技術をひけらかしてリスナーを置いてきぼりにしたり、売れ線を狙い過ぎて元々の自分の音楽性を見失ったりする。そうなるといけない。

ヒカルはそこらへんで全く崩れないのが稀有な所でね。

昔からレコーディング時のヒカルは「好き嫌いがハッキリしていて決断力がある」という評価を周りから受けていた。オーケストラにオファーして演奏を録音までしたのに全ボツにして沖田さんを涙目にしたエピソードなどが思い出される。徹底して自分の感性に拘る態度を貫くのな。

その上で「負けん気がメチャメチャ強い」のも両立するから凄いのよさ。この性格は物心ついた頃からだったようで、本人曰くゲームなどで負けたら泣いて悔しがり勝つまでやり続ける子だったらしい。あの優しい性格をしてなぜそうなれるのか未だに不思議だが、兎に角「勝つまでやる」んだそうな。

ここらへんの両立ぶりはどうやら「母親譲り」のようでね。藤圭子さんという人は、本人のインタビューや周りの人の叙述から読み取るに「自分から事を起こそうという情熱はないけれど、いざ何かを始めたら一切手を抜かない」という性格だったらしく。負けん気の強い人は「勝ちたい」「負けたくない」という気持ちが先にあってそこから努力を積み重ねていく感じだが、藤圭子という人は「何もかもどうでもいいしやる気もないし」というアンニュイでニヒルな立ち位置から何かに巻き込まれていく中で「やるならやったる」とモチベーションを発揮していったらしい。なので、生活の為に仕方なく歌い始めたとしてもその歌唱のクォリティにはこだわり続けて挙句に37週連続1位ですよ。凄すぎる。

で。ヒカルはここらへんの性格を受け継ぎつつもその虚無性をハッキリした好き嫌いでしっかり埋めている。「きゃーフレディ!」ちたいなやつね(笑)。藤圭子のスピリットをそのまま継承しつつそこから更に積極性を軸にしてビルドアップした感じで。なので、ヒカルは音楽家らしい嗜好性による行動決断選択とスポーツマンのような勝ち気な動力の両輪を持っていてもそれが相克自壊をしないのだ。なんというか、ハイブリッドなアーティストなんだな。だから、どれだけ売れようが自分を見失わなかったし、それだけでも凄いのだけど、更に、それまでと較べて売れなくなった時期でもまた自分を見失わなかった。これがどれだけとんでもないことなのか、なんだろう、それこそ体験した本人にしかわからないんじゃないの。成功が大きくなり過ぎて身を持ち崩した小室哲哉なんかを横目にこうやって今も健全な活動を続けてくれている。最新曲である『Time』と『誰にも言わない』を聴く限り、音楽家としての才能は枯渇からも滞留からも至極無縁だ。というか、ここにきて更に絶好調なのではあるまいか。

残念ながら、でも何でもないんだけど、最近は「数字で圧倒する」ということが少なくなったのでそういうのを基準にする人たちの関心を引くには至っていない。そうだとしてもそこでふためかずに落ち着いて音楽活動を続けてくれるという深い信頼がここにある。あぁ、我ながらいい選択をしてるぜ。この音楽家は(俺が言うのはホントに今更過ぎるけど)一生追い掛けるのに全きうってつけの存在なのだわね。

ややこしい商品は動画で説明しようの巻

いやはや、今日がコンピ盤の発売日だというのをすっかり忘れていて。告知してくれればいいのに。(お主する側やろがぃ) もう昨日フラゲしてる方もいらっしゃるわね。 「SING for ONE ~みんなとつながる。あしたへつながる。~」のことなんですけども。

後付けの言い訳を臆面なく言ってしまうと、これ、商品として紛らわしいんだよね。YouTubeでライブ映像を集めた動画を一ヶ月公開しててそのCDを出すとなったらどうしたってライブ音源をまとめたものだと勘違いする人が出てくる。いやもちろん商品紹介にはライブ音源とは書いてないんだけど、そりゃ間違うよねぇと。自分のような「リマスタリング違いの音源が手に入るぜ」とかいうちょいと奇特な人種にでもない限りオススメはしづらい商品なのだわねぇ。まぁでも、この日記読みに来るような人にはアテンション煽っとくべきだったわねぇやれやれ。

こういう、商品内容を間違う人が居る例ってのは(いや今回は実際にそういう人が居たかどうか知らないんだけどさ)よくよく押さえておく必要があって。自己責任という言葉が使われる文脈が嫌いな私としては、双方が納得のいく落とし所まで持っていきたいのが正直な所で。まぁあれだ、間違えた方が「すまんかった、俺がうっかりしていた」と素直に言えるようなね。

でも、新しい試みってななかなか受け容れられないもので。いや今回のコンピ盤はそれじゃないけど、あれだ、『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品の時は随分混乱したなと。

ライブフォトブック×BluRay&DVDってフォーマットはあたしには大変有り難かったがこれも少し分かりにくくてな。極端な話、売る方は、少々値段が張ったとしても極力わかりやすい商品を提示した方がよかったのかなとも思ったり。というか、あれだ、今のご時世、YouTubeで動画で商品説明した方がいいんじゃないのかなぁと思うのよ。出来れば生放送で。なんだか通販番組みたいになりそうだけど、HPで文章を載せてそれにて、で終わらせるより梶さんと沖田さんが映像で出演して「この商品はBluRayとDVDの同梱ですよ」とかやった方がわかりやすかったかもしれないなと。YouTubeで育った層にはそういうのの方がいいのかなってね。全くの余談だけどあのピン抜く広告のゲーム、ピン抜くゲームじゃなかったのかよ……凄いなそれ……(ホントに余談過ぎる)。 

で、生放送であればコメントやツイートを拾って即座に疑問質問にも答えられるかなと。勿論ヒカルがそれをやるのがいちばん視聴数多く出来るんだけど、宇多田ヒカルにはレピュテーション・ストラテジー(評判戦略)というのがございまして、本人は極力商売っ気の強い言動は控えてうただいた方がプロモーション全体としては好影響だったりするからそこはむずかしいのですよっと。

ほんと、感染症禍も相俟って、テレビに出てる人も続々YouTuberになってるし(ミラクルひかるもそうだよねぇ)、動画や配信でのコミュニケーションはますます重要になってくる。未だに顔出ししていない隈部くんはともかく、沖田さんや梶さんや小森くん師匠なんかはどんどん顔出しでYouTubeに出て喋っちゃっていいんじゃないの。有難いことに全員トークの達人だしね。そこらへんもプロフェッショナルだわ。頼もしいスタッフ陣だよホントに。

まぁコンピ盤の購入云々は置いといて(置くんかいな)、どんどん状況が変わっていく音楽商品の形態については都度丁寧な説明が必要になってくると思うので、その方法論は一考の価値があるんではないかなというお話でございました。とさ。