無意識日記々

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外の比較と内の共鳴

前回、行動の基準や価値観を内側に置くタイプの代表として音楽家を、外側に置くタイプの代表のして競技選手を例に挙げた。しかし、嗜好性を軸にするなら音楽家に限らず表現者やクリエイターは大体そうだろう、と述べることも出来る。

であってもその中でも音楽家と強調する理由に触れたい。

価値判断を内に置くか外に置くかというのは、共感と比較という言い方も出来る。

外の価値判断基準の基本は比較だ。どちらが速いかとか長いかとか大きいかとか多いかとか、二つのものを比べ合わせる事で価値をはかる(三つ以上の比較は二つの比較の比較の組み合わせだ)。棒Aと棒Bのどちらが長いかはAとBを並べて見ればわかるし、走者Cと走者Dのどちらが足が速いかはゴールテープをどちらが切るかを見る事ででわかる。二つ以上のものを並べて見比べる事が外の価値観の基本だ。

ところが、「音」の比較は難しい。特に片耳でとなると至難の業だ。視覚による比較は片目でも十分に行えるが、音同士というのは常に時間をずらして鳴らさないと比べられない。棒Aと棒Bを並べて見比べるように音Eと音Fを同時に並べて鳴らしたらEとFの和音(或いは不協和音)にしかならないからだ。時間をずらした時は必ず記憶というバッファを介在することになるし、そうでなければ大抵の場合はそれをグラフや数値といった視覚情報に変換して比較する。比較が得意なのは視覚であって聴覚ではないのだ。

故に「音」を通じた価値判断はその共鳴具合にかかってくる。お互いに響き合うかどうか。音楽が鳴らされた時、それと反応するのは他の第二第三の音楽ではなく聴き手の心だ。それが共鳴すればお互いに惹かれ合うし、うまくいかなければ離れ合う。これを大抵好き嫌いと呼ぶ。音を介して世界と繋がる時、好意や嫌悪感といった価値観がキーとなってくるのだ。なんか苦手な音がするから逃げよう、みたいなね。

つまり、視覚、目に見えるものを基準とする人は他者より優ろうという外の価値観を重視しがちだし、聴覚、耳で聴こえるものを基準とする人は嗜好性という内の基準を重視しがちになる。論理的帰結であって現実にどうかは別だが。

実際、この度iPhone12が発表になったが、セールスポイントとしてニュースになるのはカメラの話ばかりである。お前もともと音楽プレーヤーiPodの発展形やろがい、とは思うものの、音楽プレーヤーとしての新機能については殆ど触れられない。新製品として、過去のiPhoneや同時代の他社製品より優れた所をアピールする時には視覚でわかる要素を押し出した方がわかりやすいからだ。いや実際にもう音楽プレーヤーとしての進化を諦めているというのが真実かもしれないが、それもつまり、ガジェットに求められるのが市場競争力、勝ち負けである事の帰結なのかもしれない。

そういう話を踏まえた上で、音楽家宇多田ヒカルが作詞面でその特性を活かし切っているという話をしたかったのだがこの前フリだけで長くなってしまったので続きはまた次回のお楽しみ。