無意識日記々

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インタビュー、既に歌詞。


2週目の「EIGHT-JAM」も充実した時間だった。どうせインタビューするならミュージシャンに直接訊いて貰えれば…とも思っていたが、なるほど、事前にしっかり複数のミュージシャンから質問を募っておいて代表者が纏めて質問し、その返答を今度はスタジオに集めた当の質問者のリアクションを交えて放送する、そういうフォーマットだったのね。よく練られてるなぁ。番組としての経験値を感じました。…というのが、普段この番組を観てない人間の感想なのでした。


また、このような内容だと、マニアには食い足りず一般視聴者にはわけがわからないという「帯に短し襷に長し」な所に落ち着いてしまう危惧もあったのだが、普段はどうか知らないけれど、質問者がもう殆どファン目線になるほどに偉大な(と言われてもヒカルは嬉しくないだろうけども)ミュージシャンが、一般視聴者にもわかる言葉で基本話しててくれたので、そういう危惧もクリアされていた。ここは番組フォーマットとの組み合わせがよかったのかもしれない。何れにせよ、こんな番組が地上波でずっと放送されてるの奇跡やね。



で。結局のところ、ヒカルにとっては質問への返答という切り口であっても、既にそれは作詞作業に近いことなのだなと痛感させられた2週でもあったかな。少しでも多くの人に伝わる平易な言葉で日本語を組み立てていく。その上語呂の良さなんかもところどころ天然でみせてくれていた。TVインタビューが時間という枠に縛られているのもまるで字数制限のようで、もうこんなのやっぱヒカルにとっては作詞だよね。なので、宇多田ヒカルの作詞術に興味のある人なら、たとえ例えば「NHK MUSIC SPECIAL」のような直接音楽に関係が薄い人生相談のような内容であっても、それぞれ興味深く聴く事が出来たのではないだろうか。


例えばそうね、『Electricity』の『between us』に関して


『なんか“うにゃ〜”ってなってる感じが好き』

『歪みとかそういうの』

『痒い所に手が届いた感じ』


なんて答えてたけど、『うにゃ〜』というこどもにも伝わる語感、それを客観的に見直した時の「歪み(ゆがみ)」という纏め方、そして「痒い所に手が届く」という定型文に落とし込む感じは……そうね、例えば『Fight The Blues』の


『くよくよしてちゃ敵が喜ぶ』

『明るいニュース聞かせてあげる』

『笑う門には福来る』


という歌詞の流れとかなり近い。「くよくよ」というこどもでもわかる言葉、そこからの「明るいニュース」という明快なワードチョイス、そして『笑う門には福来る』という諺つまり定型文に落とし込む流れ。…まぁ大体同じでしょ?


斯様に、インタビューの時点で既にヒカルの「作詞スタンス」は始まっている。そうそうないことだろうが、このインタビューのやりとりから将来の歌詞に繋がるやり取りもあったかもわからない。この仕事をした日もまた、宇多田ヒカルの貴重な1日のひとつだったのだからね。ほんに、70分もお疲れさんでした。

不憫かなにか?


『Electricity』、不憫コースに乗ってない? 大丈夫?


『何色でもない花』のスマッシュヒットぶりを全く予測できなかった私が今更何を言っても説得力がないのだけど、『Electricity』って、少なくとも『One Last Kiss』と同じくらいはヒットしてないとマズくない? めっちゃ凄い曲じゃね?


前も書いたけどその時と変わりなく、アテクシ『SCIENCE FICTION』を気に入り過ぎてしまって未だに『Electricity』をヘビロテしていない。てかまだ『SCIENCE FICTION』をシャッフルで聴いたことがなく、ひたすら中毒からマルセイユまで曲順通りにリピートし続けている。いつまで経っても、だから、『Electricity』は“アルバム曲”のままだ。


が、そんな風に全く特別扱いしていないにも関わらず、SFを一通り聴いた後圧倒的に印象に残っているのが『Electricity』なのだ。そりゃラス前だから記憶も新しいだろうと言われたらそれまでなんだけど、毎日朝起きて夜寝るまでの間、どこかで脳が休もうとすると途端に「エ・エ・エ・エ・レ・エ・エ・エク」という声が脳内にこだまする。完全に中毒じゃん!って思ってるうちにまたSFをリピートしてElectricityに辿り着きマルセイユを経由して『Addicted To You (Re-Recording)』、中毒に戻ってくるのだからよく出来てるなぁと他人事のように感心してしまう。そしてまたまたリピートが繰り返される。嗚呼、これもワームホールみたいなもんなのね。宇宙のトポロジーですね。(なんのこっちゃ)


この、気に入ってるか入ってないか以前に脳内にこびりついて離れない感覚、大ヒット曲の特徴でしょーに!? でも、『Electricity』、最新曲の割には影が薄いよね。伊藤忠綾鷹ほど出張ってないからなのだけど。あとMVないからね。これもなんだかんだで痛い。なのでついつい不遇とか不憫とか考えてしまう。ほんに、勿体無いなぁ。


でも、(SFでは)お隣のマルセイユだって粘りに粘った感あるよね。最初にリリースされたの22年1月だもんね。そこから八景島でビデオ作ってSpotifyで流してYouTubeで流して今回エディット作ってビデオも再編集して…それでようやっと今月ラジオのチャートなんかにも入ってきて。粘ってみるもんなのよ。


なので、『Electricity』はここから思いっ切り粘って欲しい。ヒットポテンシャルは過去最大…というのは、「日本語圏以外も考えた時」の話でさ。『Come Back To Me』以来のヒットになると思うけどねぇ。まぁツアーがアジアに留まったから、もっと長期に考えなくちゃいけないやつかもしれんけど。英語バージョン作ったり、エクステンデッド・ミックス作ったりアナログ出したり、そして勿論ミュージック・ビデオも作ったり…頑張りようは幾らでもある。


今回、綾鷹トラベに全部持ってかれたからなぁ。YouTubeみてみると、綾鷹トラベの再生回数が234万回で、『Electricity』のオーディオ・トラックが33万回か…まぁその数字は比較できるもんじゃないけど、それにしても、ねぇ?


こんな変わった“自滅”も珍しいんじゃない? 余りにもいろいろ充実し過ぎていて、最新曲に向けられるべき関心が分散されてしまってるって。あたし自身がそうなっているのだから言えた義理は微塵もないのだけどね。なのでここは頭を切り替えて、『Electricity』には長期戦を睨んでツアーを迎えて欲しいと、思ってます。ももももちろん、ステージで歌ってくれるのよね?? U-NEXTでの配信が決まったから、チケット落選しても観れるぞ! ちょっと一安心ですね。

"不適切な"歌詞たち


そういやこの度「NHK MUSIC SPECIAL」にて、ヒカルの『光』がテレビ初披露だったわけだけど、これNHKだったからできたということなのかな。なぜって歌詞に


『テレビ消して

 私の事だけを見ていてよ』


って出てくるんだもんねぇ。テレビ放送でテレビを消せと?? いや、日本のテレビ放送を代表するNHKだからこそ寧ろ気にしないといけないのか?? 他のこういう歌詞の歌はどうしてんだろね。そんなものがあるのかは知らないが。


逆に『Kiss & Cry』はNHKでは歌わないだろう…『今日は日清カップヌードル』って歌うからな。スポンサー色が強過ぎる。まぁそれを言うなら同曲はライブ・バージョンでは一旦不適切だとボツにした


『娘さんのリストカット


をしっかりと歌ってるね。これはラジオで流すのすら憚られたってことでしょうか。


優しく思いやりのある人柄として認識されている宇多田ヒカルさんだが、だからといって別に品行方正な方でもなくて。『BADモード』では


『Hope I don't fuck it up

 Hope I don't fuck it up again』


と歌った為Apple Music Radioではバッチリ消されて放送されていた。今回のSFでもこの曲のクレジットにはバッチリ[E]の字が刻印されている。この[E]はexplicit lyricsのことで、意味は


「《音楽》エクスプリシット・リリックス◆性的または暴力的な表現などが含まれているポピュラー・ソングの歌詞。」

https://eow.alc.co.jp/search?q=explicit+lyric


ということだそうで。一言で言えば「R指定な歌詞」って事ですね。



という風に結構危なっかしい歌詞がある宇多田ヒカルさんですが、最新曲である『Electricity』の


『そんな人類みんなに

 アインシュタインが娘に宛てた手紙

 読んでほしい』


という歌詞もまた、将来的にヤバい可能性がある。まだ現代では議論の俎上に乗っていないが、今後「電子情報に於けるフェイクニュースの拡散」に法的措置が取られる可能性があるからだ。「歌詞やん?」と誰しも思うところだが、いつの時代も規制派は政治的な存在なので、現実と虚構の区別とか実際に被害に遭ってる人の救済とかは興味がない。歌の歌詞だろうと対象になる可能性は十分にある。なので、まぁここの読者さんには馬の耳に念仏かもですが、こういう将来的に危なっかしい歌詞の歌はサブスクで済ませずにCDを購入しておきましょうねということでひとつ。って、通常盤でも4500円、ダウンロード購入でも3000円近くするのか…なかなかに悩ましいお値段ですねぇ。「タワレコ撮影させてもろたからご祝儀がわりに一枚追加。」とかやってる私は、自分の異常性に自覚的であるべきですね…。(話のまとめ方がおかしい(笑))

相貌の層


ヒカルさんの顔面というのは相当に不思議だ。今までの拙い私の人生経験から導き出してみるに、人の顔面てのは、年月を経るに従い大体一定の方向に少しずつ変化するものなのだ。まぁ大人になるとか老けるとかいろいろあるんだけど、何かひとつ大きな出来事があってそれ以降顔つきが変わるとか、そういうのは一生に一度とか二度とか、とにかくレアなもの…なのだと思っていたのだが。


宇多田ヒカルの顔面は、そんなこちらの“常識観”などどこ吹く風、遠慮なくごく短期間でコロコロ変わる。更に、変わり方の振り幅が尋常じゃない。前に「創作時の狐顔と人と会い始めた時の狸顔」なんて話もしたっけね。曲を作ってる時は怒りっぱなしで、人と会う時は笑顔を心がけているから、それぞれ吊り目と垂れ目になる。その振幅だけでも稀有なのに、時期によって最早違う人かというらいに作る表情が違う。というか性格からして違う。Music Talks '98の時のクソ生意気なバイリンギャルガキンチョムーブと、2003年の新婚ホヤホヤのえびす顔の間、僅か5年である。あんなん完全に別人やん。しかもその間にメイクを変えたり体重の増減やら髪型の変化やらまで加わって惑わせてくれるものだから本当に始末に負えない。


それが25年続いてきた。途中5年半ほど欠けているけど、どちらにせよその時々で顔面がバラバラなのであんまり関係がない。なかなかないそういう機会もないが、たとえ見たことのないヒカルの写真を今目の前に提示されたとしても、何歳頃のヒカルなのかわかる可能性が結構高い。加齢による漸進的な変化ではなく、その時々に独立に独特なのだ。


なので、ヒカルは基本的に、その時々にしかみられない表情を刹那々々に示してきていて、もうその頃の顔面には戻らないのだと思っていた。独立に独特な上に、どこかの時点に舞い戻るということもまたなかったからだ。


が、今回『SCIENCE FICTION』を制作しそれに関連する取材を受けたり番組に出たりする中で、ヒカルが過去の自分を振り返る機会を得た。これが結構レアで…ってそうなのよね、「初のベスト・アルバム発売」と銘打ってるんだもんね、そう、今までにないことだったのだ過去の自分を振り返るって。なので殆ど初めて聴いた&観たのですよ、「今のヒカルが昔のヒカルを真似をする」という行為を!


まずはラジオで、2000年頃の喋りを再現してみせていた。うわ、結構あの頃に似てる! 次にテレビでもあの頃の喋りを再現してみせた。うわ、びっくり! その頃の表情、今でも出来るんじゃん!


そうなのだ、顔つきが、表情筋のつき方が変わっても、ちゃんと昔の「表情の作り方」を身体が覚えているというか。まんまちゃんとなれるんだな、別の年齢のヒカルに。今41歳のヒカルが。そう、『Passion』発売時のインタビューに準えるなら、


「41歳の宇多田ヒカルの中には、31歳の宇多田ヒカルも、21歳の宇多田ヒカルも、ここに居る。」


ということなのだ。それをこうして視覚的に確認できたのが無性に嬉しくってね。人としての成長と変化、立場の変遷によって、昔のような無邪気だったり幸せいっぱいだったりという幼気な表情にはもうならないのかなと思ってたけど、今でもそういう感情と表情筋の神経はヒカルの中でしっかり健在なのだった。うむ、ぶっちゃけ、常に次の新曲が待ち遠しい我が身にとって、今回の「過去を振り返る雰囲気」を味わう中で、最も嬉しい出来事…確認作業だったかもしれない。そっか、41歳の宇多田ヒカルの中には40歳のヒカルも39歳のヒカルも38歳のヒカルも37歳のヒカルも36歳のヒカルも35歳のヒカルも34歳のヒカルも33歳のヒカルも32歳のヒカルも31歳のヒカルも30歳のヒカルも29歳のヒカルも28歳のヒカルも27歳のヒカルも26歳のヒカルも25歳のヒカルも24歳のヒカルも23歳のヒカルも22歳のヒカルも21歳のヒカルも20歳のヒカルも19歳のヒカルも18歳のヒカルも17歳のヒカルも16歳のヒカルも15歳のヒカルも14歳のヒカルも13歳のヒカルも12歳のヒカルも11歳のヒカルも10歳のヒカルも9歳のヒカルも8歳のヒカルも7歳のヒカルも6歳のヒカルも5歳のヒカルも4歳のヒカルも3歳のヒカルも2歳のヒカルも1歳のヒカルも0歳のヒカルも生まれる前のヒカルも、みんなみんなみんなみんな、ちゃんとそこに居るんだね。あー嬉しい。そして42歳以上のヒカルもまたそこに居るのだから、頼もしいなぁもう。




追伸:書きながら各年齢のヒカルがフラッシュバックしてきていちいちじぃんとしてしまった。3歳のヒカルとか、知らないけどね。

焦りまくるヒカルママの姿が目に浮かんだわ


今回明らかになった事実の中で殊更強力だったのが、「ダヌくんは、ママの離婚歴が2回あるのを知らなかった」話ではなかろうか。


どうやら、ヒカルママの口ぶりからするに、ダヌくんの「どうしてうちはママとパパが別々に暮らしているのか」という素朴な疑問に対して、かなりシリアスに返答している模様。何歳くらいの幼さで初めて話したかはわからないが、結婚と離婚という概念から諭さないといけないとすると、慎重になるのも無理からざるところ。まぁそこまではいいとして。


ところが、どうやらかなり呆気なくヒカルママは自身の離婚遍歴をポロリと溢してしまったようで。恐らくダヌくんも時折会うパパとの関係性から離婚というものを実感に落とし込んでいただろうところ、いきなり見知らぬおっさんご登場である。ちょっと恐怖に似た感情も生まれたかもしれない。何しろその1回目の結婚と離婚の事実自体を知らなかったのだからその瞬間には「もしかしたら生き別れの兄姉がいる…?」とか想像をはたらかせてても何ら不思議ではない。小さい子でも童話やアニメでそういうのは学習してたりするからね。いやはや、なかなかにショッキングではあるまいか。


そこからのヒカルママによるダヌくんへのメンタルケアは大変な苦労があったのではないかと推察される。ヒカル自身は「身から出た錆」と思ってたかもしれんがね。やれやれ、その次にキコパパと会った時にダヌくん、どんな顔をしていたのやら。


そんな家庭の事情に踏み込むつもりはもちろんなくて(既に大概話題にしとるがな)。遠くから眺めてるリスナーとして私たちがここで認識しておきたいのはつまり、


ダヌくんはまだネットでママの事を詳細に調べた事がない」


という事実である。まぁ、日本のWikipediaみてもサラッと流されてるし、英語版に至っては離婚の話出てない?くらいなので、かなり詳細に調べないとわからない事実ではあるのだが。少なくとも、「ママのファンだからなんでも知りたい!」的なテンションではなさそうだ。


となると、うちらが彼のことを親しみを込めてダヌパと呼んでるのも知らないかもしれないのか。それも時間の問題だろうけど、ひとまず現時点では、ね。ただ、既に『パクチーの唄』『BADモード』『気分じゃないの(Not In The Mood)』といった楽曲には参加してるので、いつ反応が気になってエゴサーチするか、もうしてるかは、わからない。いずれにせよ、将来、彼に検索された時に読まれても構わないトーンで、ダヌパの名前を出してあげておくのが、ファン&リスナーとしてのマナーなのかしらね、と思うのでありましたとさ。