無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

銀賞

Deep Riverといえばその名の由来は小説「深い河」、作者は遠藤周作だが、彼が何度かノーベル賞の候補として名が上がりながら獲得できなかったときいて、妙に納得してしまった覚えがある。

ノーベル文学賞というものがどうやって選出されるかは知らないが、取り敢えずシンプルに文学の最高峰を選出する賞だと勝手に思い込んでいる。その基準からいえば、遠藤周作が如何に優れた作品を書いたとしてもどうにも選出しにくいと思うのだ。

彼の悪戯っぽい性格は、対談をしたときに散々からかわれたというさくらももこがエッセイで詳細に書いていたかと思うが、その、"「毎日何を食ってればあんたみたいな人間になれるんだい?ひどいヤツだな」「いやぁ、私は人を食って生きてますから」"な性格は(って今のヤリトリの元ネタが思い出せない〜)、まさに人が他に居て初めて成り立つ類のものであり、その特質は作品の色合いにくっきり現れている。

人を食った、という表現が適切でないならば、抜け目ない、とでも形容しようか。ありていにいえば"ひとを出し抜こうといつも目をギラつかせている"人であり、深い河を読んでいる時もその視線を妙に感じてしまっていた。

彼のような人が作品を成す場合、世界のどこかに彼のギラつく視線を受け止める"誰か"が居なければならない。その誰かはもしかしたら周作に騙されるかもしれないし、出し抜かされるかもしれないし、表面的な小説の技巧や娯楽性で上回れるかもしれない。それでも、遠藤周作はいちばんにはなれない気がしてならない。事実、深い河は傑作でありその重々しいトーンにさえ抵抗がなければ万人に薦められる作品ではあるのだが、ことノーベル賞のような「いちばんを決める賞」に選ぶかというと、違う気がする。サー・クロコダイルは「おまえに勝てなかった"だけ"で涙をのんだ"銀メダリスト"は(この海には)ごまんといるんだぜ」と叫んでいたが、たとえ勝負に勝てたとしても(この場合は)"銀メダリストはどこまでいっても銀メダリスト"だ、と(残酷なことを)私は云っているのだ。

光の場合、(少なくとも宇多田ヒカル名義では)スタートからぶっちぎりで"いちばん"だった。日本ノーベル音楽賞というものがあったとすると1999年は間違いなくヒカルの受賞だっただろう。それ以後の同業者達の評価から考えても、その別格ぶりは突出していた。

トップに立つ者の孤独、という在り来たりの表現は、しかし、光には当てはまるかどうか。誰かが後ろをついてきている気配さえないのである。前も触れたとおり、ライバルすらも見あたらず勝ち負け云々の前に土俵がない。

ここまで極端に別次元に孤高な"いちばん"の光が、何故、生き馬の目を射抜くようなギラついた目線を他者に投げかけていくことで小説を構築する遠藤周作の作品に傾倒したのか、或いはアルバムタイトルとするほど気に入ったのかはちょっと不思議だったが、もしかしたら光にも"銀メダリスト・フレーバー"、即ち輝く誰かの後ろ姿を追う精神がどこかにあったのかもしれない。

あったとすれば、そして背中を追う相手が居るとすればもうこれはひとりしかいない。40年以上前に同じような立場の"いちばん"を経験した母である。

母をみるとき、光は、遠藤周作が敬虔なクリスチャンであったように、その輝きの後を追い、無批判に様々なことを吸収してきたのだろうか。

ならば40年後、光の背中を眺める視線が新しく居るかどうかに興味が出てくるところだがなんだかデリケートな話になりそうなので今夜のところはこのへんで「目を閉じる」ことにしますかな。