無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

※着想メモ

ヒカルの歌はラブソングが主体だが、必ずしも恋愛な感触が強くない曲も結構ある。ぼくはくまは当然ながら、Passionとかテイク5とかもそんな感じだ。パロディやKeep Tryingもそれぞれ恋愛の歌というより何らかのメッセージソングという風合いだ。これらを並べて聴くと、歌詞を吟味しなくてもある一定の感覚が浮かび上がってくる。AutomatibやFlavor Of LifePrisoner Of Loveから感じるあのいかにも恋の歌、という感触とは異なる、ちょっと距離のあるあの感じ。何か共通点はあるのだろうかと考えてふと気がついた。これらの曲には「ぼく」や「私」は出てきても、「君」や「あなた」が登場しないのではないか。

ぼくはくまについては、明確である。ライバルや前世、更にはケンカというワードからここには"他者"の感覚が、あるにはあるが世界はやはり"ぼく"を中心に回っている。そして、恐らくその"ぼく"にとって最初の"君"、"あなた"になるだろう存在が"ママ"なのである。

これを逆から眺めたのが嵐の女神で、"あなたにはかなわない"と大人の視点で始まってその想いは小さい頃の自分の"お母さん"に収束するのだ。

Passionでも、出てくるのはまず"僕ら"であり、"二度と会えぬ人"や"ずっと前に好きだった人"は出てきても、君やあなたは出てこない。その代わりにぼくらと入れ替わるように"わたしたち"が登場する。

time will tell も同様である。ひとりで落ち込まないで、とは語りかけるがどこにも君やあなたは居ない。その為、この優しいことばたちは(Passionの前半同様)どこか超然としていて、まるで老人のような達観を感じる(私が最初にヒカルの歌を聴いた時に、そう思ったのだった)。

恐らくここで君やあなたと取って代わっているのは"青空"で、歌の主人公は、或いは語り部は何か大きい存在と"目が合って"いるのだろう。


…このテーマ、大きすぎるのでいつか次回に続くぜっ。