無意識日記々

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More No Money

昨晩のNHK「Deep People」は面白かった。コロッケ、コージー冨田ミラクルひかるという3人のものまね職人による対談。ネタ帳をもってるのがミラクルだけだとか意外な事実も出てきたが、私がシンプルに耳を引いたのは「ものまねする相手の持ち歌でない歌を唄う方が似る」という話だ。

そういってコロッケは鈴木雅之で童謡「ぞうさん」を唄い、ミラクルが同じことを宇多田でやろうとする流れだったのだが、なるほど、元歌はそもそも本人歌唱による"100点満点"の歌唱がある為、ものまねが似すぎていると寧ろ「あそこが違う、ここが似てない」という減点法になりがちであり、どうしても評価が辛くなってしまう。しかし鈴木雅之は(恐らく)公の場で「ぞうさん」を唄った事がない。ものまねを聴く方は0点からの出発であり、全体として特徴を捉えていれば細部は似ていなくても誰も気にしない。注意が、普段のぞうさんでは聞けない"鈴木雅之っぽさ"に集中するからである。

このものまねにおける事態は、オリジナル曲もカバー曲も唄う歌手にとっても幾つかの示唆を与える。ライブでスタジオバージョンをなぞった歌唱をすると評価が減点法になり人の口から出るのは「あそこの声が出ていなかった」という話になる。お手本が100点満点で存在する悩みは、ものまね芸人だけでなく自分でオリジナルの曲を作って歌っている歌手にさえ存在するのだ。

なので、ヒカルがライブの歌唱で好評価を受けるのはいつもカバーだったり大幅にアレンジを変えたバージョンだったりする。カバーの場合、案外オリジナルはお手本として機能しない。アプローチや提示方法にも左右されるが、寧ろ鈴木雅之の「ぞうさん」のごとく、そこに歌手としての「宇多田ヒカルらしさ」を封じ込めることさえ出来れば、細部の差異は人の注意はひかなくなる。カバーはコピーを期待されない。他者の曲だからこそ唄い手の個性が期待される。これは「その人の持ち歌でない歌を唄う」ものまねと構造としては同じである。

この時、大切なのはでは何の曲を唄うかという選択である。「ぞうさん」はさりげないが、みんなが知っていて且つ鈴木雅之が歌っていたとしたらというギャップが楽しめるいい選曲だ。ヒカルがカバーを唄う時も、歌唱自体の素晴らしさは勿論いうまでもないのだが、それ以上に、歌手宇多田ヒカルの個性を込められる曲の選び方が絶妙な事も見逃してはならない。ある意味、歌い出す前から勝負は決まっているのである。

余談だが、ミラクルひかるの変なメイクをしていない状態の別嬪ぶりはツイッターでも好評だった。あまりに可愛すぎたせいか、中には「では宇多田のものまねをする為にわざと普段は劣化させる必要があるのか?」と不埒な発言まで出てきて笑ってしまったのだが、両者とも間近でみた事のある人間からいわせてもらえれば、あの可愛さはだな…長くなるのでやめておこうw