無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Is transparent a parent,to me?

「透明」とはしばしばネガティヴな意味で用いられる。輪るピングドラムでは(今の所)"アイデンティティの崩壊と喪失"という意味で使われていて、それをどう阻止するかが目下の論点となっている。(まぁ尤もこのあとどんでん返しが待っているかもしれないが)

なのに光はその「透明」になりたい、と言う。何か破滅願望でもあるのだろうか、会いたいと願う気持ちが溢れ返る巷間でセットリストの最後にじんわりと沁み入るMCから『誰も居ない世界へ私を連れて行って』と歌うからには何か厭世感のようなものがあるのだろうか。死を身近に感じたり生きてる感じがしなかったり。そういう人間が『何も知らずにはしゃいでたあの頃へ戻りたいねbabyそしてもう一度KissMe』『生まれ変わってもあなたを愛したい』と現状肯定の肯定を繰り返す様は、何か突飛な印象を受けなくもない。

勿論、ただ制作時期が違っていてその時の状況や気分に左右されたのだ、と捉える事もできようが、ならばどうにも人間活動に突入する気運が生じないように思うのだ。ただの現状肯定であれば、今アーティスト活動を休む必要はない。「これでよかったんだ」という肯定自体が前に進む力を与えてくれる、そんな構造がどうにか存在する筈である。まさにGoodbye Happinessである。

Happinessとは充足した状態、満足した状態の事だ。器があったら空っぽでない、何かで満たされた感覚。"透き通った"とか"透明"とかからは程遠い領域だ。かといって、Happinessに別れを告げたとしてもそれが透明に向かう力になるかというと弱い。

『こんなに青い空は見た事がない』とは、昔から青い空を透明の象徴として使ってきた光にとって、そして嵐の通り道を歩いて返る光にとって、この道を行けば透明に至るという感覚が存在する事を意味する、のかな。うーん、続く。