無意識日記々

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わたしたちにできなかったことを

Keep Tryin'の『ずっと ずっと』に関してはまた触れる機会もあるだろう。今回は話をほんの少しばかり巻き戻してPassionの詞世界に立ち返って、そこからKeep Tryin'の歌詞を眺め直してみる。

『思い出せば 遙か遙か
 未来は どこまでも輝いてた
 きれいな青空の下で
 僕らは 少しだけ怯えていた/いつまでも眠っていた』

書き写すだけでもその美しさに惚れ々々してしまうような圧倒的な歌詞だが、ひとまず、この4行からこの歌の主人公はどのような人物だと思えるだろうか。開けた未来への回顧と、"僕ら"という呼称を併せればそれは「かつて少年だった人」という描像に結びつくだろう。

更に、

『ずっと前に好きだった人
 冬にこどもが生まれるようだ』
『ずっと忘れられなかったの
 年賀状は写真付きかな』

の二節から窺えるのは、この"嘗て少年だった人"には昔想い人が居た、という事実だ。この恋は実らなかった。彼の想いは一方的だったのだ。

もうおわかりだろう、Keep Tryin'の最後のパート、

『少年はいつまでも いつまでも片思い』

とは、Passionの主人公の事を歌っていたのだ。だからこそその続きは

『情熱に 情熱に お値段つけられない』

と"情熱/passion"の連呼でなければならなかった。冒頭で『ずっと』のバトンを受け取り、最終局面でその想いの丈にエールを送る。この2曲の関係性は、どこまでも美しい。


ただここで問題がある。"僕ら"という事でPassionの主人公を少年(或いは少年達)と断じたが、本当にそれでいいのだろうか。よくよく見返して聴き返してみると、最後の1行は、(『必ず帰るよ』ではなくって<余計)

『わたしたちに出来なかったことを
 とても懐かしく思うよ』

となっていて、主語が"わたしたち"に代わっているではないか、ヒカルの歌詞では複数の視点が交錯するのは常套なのだからどのセンテンスがどの主語からの言葉は軽々に決められない、ひょっとするとこのSingle Version独自のパートでは主語は"僕ら"から"わたしたち"に遷移していて、実は恋をしていたのは女性であり、つまりこの主人公は、(『こどもが生まれるそうだ』から察するに)同性である女性に恋をしていて、だからその恋が成就しなかったからこそ辿り着いた"違った未来"である現在において、"こどもを生む"というという行為が可能になったのであり、それはつまり"わたしたち"(女性と女性)では成し得なかった事なのだ、その想いから『わたしたちに出来なかった事をとても懐かしく』感じるのではないか、そういった主張も十二分に有り得るだろう。なるほど、よく読んでよく考えたな。

それについては…今宵も時間が来てしまったようなのでまた稿を改めてと相成ります。ではまた次回。