無意識日記々

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遅れてきたペルソナの三男坊ぶり

人間活動で人間力(?)が上がれば、復帰後はLIVE活動が盛んになるのではという期待も、なくはない。が、あの才能の多彩さを考えれば寧ろもっと活動の幅が広がり、LIVEはますます貴重になるかもしれない。それは危惧となる。

前からこの問題には触れているが、LIVEのプレミア感が増しすぎると内容の評価が不自然な方に傾く恐れがある。見に来れただけで満足、みたいな空気は必ずしもアーティストの為にならない。楽しみにきてるんだから評価云々みたいなギスギスした空気を持ち込まないで欲しいと感じる向きもあるだろう。私もそうだ。が、昔競技場をコンサート会場にするような超ビッグなバンドがコアなファンしか楽しめないようなショウを展開するのをテレビで見掛けた時、「やっぱりLIVEは熱心でない人たちにも観てもらった方がいいかもな」と思った。

コアなファンだけでスタジアムが埋まってしまうと、感覚が麻痺をする。何しろ、それ以上大きな会場がないんだからそこから何かを根本的に改善しようだなんて思えないからだ。観客が減るリスクをとる位だったら、確実に今までやってきた事をそのまま続ける方がいい、となるのは当然の成り行きというヤツだろう。

んだがしかし、私がヒカルに求めるのはそっちではない。出来れば、いつも言っているように、その晩暇な人がたまたまふらりと立ち寄った時に魅了できるようなコンサートを開いて欲しいのである。今のところ、しっかりそっちの方向で成長しているので心配はしていない。

送り手側がここから「内向き」になっていくとは考えづらい。寧ろ、ファンの側が内向き志向になりはしないかという懸念の方が大きい。そうならない為にもツアーを適切な規模で行っていった方がいい、となるのだがそこまで体力がもつかどうか。

ここらへんは二律背反なのだ。光がもし、更に新しい分野に進出したら―例えば小説を書いたとしよう、そこで新しくファンになってくれた人たちがLIVEに来るかもしれないのである。自分で書いた小説のイメージソングまで自作しちゃったりなんかしたら尚更だ。そうなるとますます「外向け」のLIVEをする必要が出てくる。嬉しい事態ではあるのだが。

逆の考え方も出来るか。本数を抑えればなれ合う事もなく常に新鮮な気持ちで向かい合う事ができる。それは確かにメリットだが、先程触れたプレミア感のデメリットとのバランス次第か。

活動毎に様々なファン層が流入してくるならば、ますます「生身の光に会える」LIVEの場の重要性は高まる。それと共に中身の充実度と普遍性も問われてくる。逆にいえば、LIVEを主軸にしてスケジュールを立てれば見通しはよくなると思うのだがそこから先は光の人生の生き方の話になるからじーっと見守るしかない。はてさて人間活動はどちらの道への助力となるか、やはり興味津々である。