無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ブッダダ・シャカル

今回の一連のツイートは作詞並みの労力が費やされているとみるのが妥当で。いやそう思わないとやってられないというか。つまりは彼女の脳は特に休養期間でも何でもなくバッチリ活動中という事だ。

これだけ様々な事物を視野に収めた上での発言となればもう皆の反応は予想通りというか台本通りの配分である。「こういう事言う人出てくるだろうな〜」というそのまんまがストリームに現れる度にあららららという気分になる。正に釈迦の掌の上。ブッダダシャカル様である。誰だよそれ。

こうなってくると、なかなか「その発想はなかったわ」という反応が出て来ない。そういう意味においては確りと考えられた発言は面白味が薄い。寧ろ、ヒカルのツイートがどこまでよく考えられたものなのか、どれだけ美しいものなのかに気づく人がどれ位居るか、というのを知るのが楽しそうだ。…あんまり居ないなぁ。内容が内容だけに、賛成か反対か、同意か非同意かというリプライが圧倒的に多い。いやまぁそれでいいんだけれど私のように基本的に「どっちでもいいよ」と捉えている人間にとってはこの作詞家の"言葉の選び方の巧みさ"の方にばかり目が行く。人それぞれなんだな、やっぱり。

意外と思われるかもしれないが(?)、私は隙あらば光に反論したいのである。毎日絶賛しているようにみえるのは結果としてそうなってしまっているに過ぎず、いつだって至らない発言をすれば叩いてやろうと待ち構えている。つまんない曲なんか発表しようもんならそりゃもうけちょんけちょんに…という態度で来て早幾星霜。本当に隙を見せない…というか隅々まで考え抜かれている。原発の件も名前の件も、各種の反論は何れも想定内であり、しかし出来ればその中に"更に考えさせられる"何かが含まれてはいないかとついつい探してしまう。成長の契機は、常にそちら側にあるのだ。

なので出来れば私も、イエスマンにならずに反骨心をもって反発していきたいのだがなかなかその材料がない。既存の反論の数々は書いてある文章やことばに目が行っておらず、要は読解力不足、即ち誤解であって表現としてはとるに足らない。しかし人は自分のみたいものをみる、って本当だね。

そうではなく、本質的な反論をしてみたいものだ。議論を真の意味で押し進める、有意義な視点。それが見いだせないかと毎回このblogを更新しているのだが、まぁ結局褒めちぎって終わっちゃうんだよね。今回もまた…。