無意識日記々

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バカって言った方がバカだもんねっ

ツイッターがバカ発見器と呼ばれて久しいが、ヒカルのツイートに対する反応で本当にその人の知性が露わになってしまうのは身震いする思いだ。いや武者震いでもいいけれど。

ヒカルがデビューした当初も似たような事態を招いていた。余りにも歌が巧く歌詞と楽曲が極上なので、ヒカルの事を貶す人間は途端に「見る目利く耳を持たない人」というレッテルを貼られ以後その人の発言は信用されなくなっていった。あれ、具体例が思い出せないな。もしかしたら私が勝手に脳内で創作した妄想話かもしれない。まぁとにかく。歌でもツイートでもヒカルに対する反応の仕方はその人の"程度"を審らかにしてしまう。少なくとも私はそう感じる。

こういう事態になると人は空気を読み始める。First Loveアルバムが空前絶後の売上を記録したのはヒカルの音楽がひとりひとりに評価されたから、ではない。途中まではそうだったかもしれないが、"バカにみつかって((c)有吉弘行)"からはそうではなかった。空気を読んだ人たちがその空気に従って「宇多田って凄いね〜」と言いながらCDを買っていったのである。あれ、この話も具体例が浮かばないな。もしかしたらこれもただの妄想かもしれない。まぁいいだろう。

これがバブルだ。バブルには根拠がないのでいつか弾ける。その時の反応は目も当てられない。それをさせない為には、常に批判的思考でヒカルの言動をチェックして「イエスマンにならない」心意気が必要なのだ。いきなり信じ込まない。というより、これは宗教ではないのだから疑ってなんぼである。

しかし。だがしかし。頭を使えば使うほど、考えれば考え抜く程ヒカルの言動は常に最適切を射抜いている事に気が尽かされるのだ。その時の敗北感。悔しさ。ひとことでいえば「やっぱりかなわない」のだ。考えれば考えるほど、心はボキボキ折られていく。「じゃあいつもヒカルが正しいんだよ」と言いたくなってくる。

「あの人とは是々非々で、意見が合う時もあれば合わない時もあるから」で済ませられる人は幸せである。皮肉ではない。心よりそう思う。是非そこで踏みとどまっておいて欲しい。この知性に近付けば近付く程、ヒカルと自らの間の距離が凄まじく遠い事に気付くのだ。近付いて遠ざかる蜃気楼のような…しかしまた気がついたらヒカルはそっと傍に居る。何事もなかったかのように。今度は妄想じゃないぞ。ただの比喩だ。

結局、それにより、折られた筈の心は見事に浄化される。これが世界のカタチだとすれば何とも巧く出来ている。

何が言いたかったのかはよくわからない。ただ、前回言ったように"釈迦の掌の上"で転がされてはいるものの、それが我々の人生なのだからまた同じように抗い続けるんだろうなぁ、ということだ。めげずに頑張るぞ。