無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

まくらのまくらでおさきまっくら

「オリジナリティ」という概念が広く誤解されている。いや概念自体が輸入ものなのだからそんなもんか。今カタカナで書いたもんな。これを「独自性」みたいな日本語に置き換えても何かピンと来ない。

最も広く行き渡っているのが「最早全くのオリジナルな作品なんてない」といった文言だ。これだけ文化の蓄積された世界では何かを作れば必ず何かに似てしまう事への"言い訳"として広く使われているが、これほど"オリジナル"という言葉を誤解した表現はない。事実は全く逆で、山のように文化が蓄積されればされる程オリジナルな作品は生まれ易くなるのだ。

そもそも、何故誤解が生まれるかといえば"オリジナル"という言葉のオリジンを確かめていないからだ。Originality/Originalの語幹は今言ったOrigin、和英辞書を引けば「発端/起源/原因/素性/生まれ/発生」とある。要は「辿っていった先」の事である。一言でいえば「根っこ」だ。即ち、オリジナルであるという事は、今あるものから辿っていった根っこの部分、という意味が元々なのだ。

さて、ここからが問題である。世の中に、何の前触れもなく生まれたものといえば、我々の知る限りこの宇宙自身しかない。他のあらゆるもの総て、即ちあらゆるもの総てには必ず由来がある。根っこは確かに発端だが、元々は種から伸びたものだ。種は実や花からやってきた。実や花は…とこれは延々ビッグバンまで続いてゆく。総てが、だ。となると、オリジナルという概念は、どこか行き着く場所というよりは、"根を辿る"という動的な過程そのものにあるといえるのではないだろうか。

私が「オリジナリティは誤解されている」と断じるのは、こういう思想的背景があるからだ。つまり、オリジナルとは"辿れるもの"だという認識である。寧ろ、必ず何かに似ていなければならない。似ているという事は、総てが同じという訳ではない、という意味であるから必ずそこには差異がある。そのせめぎ合いこそオリジナリティだ。素性のわからないものは逆にオリジナルを主張出来ないとすらいえる。

極端に考えてみよう。例えば今私が「がりにゅはゃっんうぴらごぞらひ」と書いてみるとしよう。私は今新しい言葉を作った。既存のどの単語にも似ていないだろう。これはオリジナルな"作品"なのだ…と主張しても、私を含め総ての人が呆れるだけだろう。そこに何か意味が込められていなければ、そもそも作品として成立しない。それは確かに、何にも似ていないという意味で"独自性はある"とは言えるかもしれないが、何の意味もない。そして意味とは他の存在との相互参照性なので、それを有するには何らかの他存在との繋がりが必要である。つまり、"辿る"事が出来なければならないのだ。

全くの思考実験として、"本当に何にも似ていない"上にそれでも何らかの"作品性"を有する存在を考えてみよう。恐らく、殆どの人はそれが何であるかを評価できない。真に独自な作品はそれが出現した時点では誰も価値がわからないのだ。経験を通じて我々が愚かだったと悟った時に、漸くその意味を理解する。気がつけば周りは既に模倣品だらけ…恐らく、そういった状況になっているだろう。そして、その歴史を振り返った時に「真の芸術は大衆の理解を得られないものだ」と中二病が湧いて出て口々に「がりにゅはゃっんうぴらごぞらひ」と唱えるのである。それもまた風物詩。



あら、話が長くなってるな。こりゃ次回もまるごとまくらさんになりそうですわ…。