無意識日記々

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成長の余白

先週末はヘヴィミュージックフェスティバルLoud Park 2012に行っていた。例年にも増して大好評だったようだが、恒例となる位年を重ねてきていると、ただ目の前のプレイを楽しむだけではなく、以前のパフォーマンスと比較してどう、という楽しみ方も加わってくる。中には最初に見てから10年以上、下手をしたら20年近く経っているバンドも居る訳で、その「成長と変化」に触れる度に感慨深くなる。

アーティストに関する"物語"とはそういった時系列順に沿った「成長と変化」の記録である。その間に、バンドであればメンバーが入れ替わったり、プロデューサーの交替、レコード会社の移籍、バンド名変更なんてのもある。今目の前で演奏されている音の"由来"を、そういった物語の要素から探る事が出来るのだ。ヴォーカリストであれば、前任者と現任者であそこの歌い回しが違うな、それは何故なら…と今のサウンドの理由づけが為されていくのである。プロなんだからそういった文脈性なしで今鳴ってる音だけで楽しませて貰わないと困る訳だが、長年観てる方からするとそういった面に加えて文脈を読む楽しみが増える訳だ。

そうなってくると、時として"現在の未熟さ"にも魅力を感じるようになってくる。例えば今回のLoud ParkはDragonforceが大絶賛を浴びている筈だが、初来日時は学芸会バンドと揶揄される程に稚拙だった。私はといえば当時から彼らの事を高く買っていたので「彼らは必ず巧くなる」と確信を持って疑わなかった。私と同じように考えた人たちが以後も彼らをサポートし続ける事で彼らは順調に成長し、今や同じジャンルの他を圧倒する程の存在となったのだ。感慨深い。

つまり、幾らプロといえどもその時点での未熟さを論らうばかりでなく、その成長の余白まで見極めて支援していかないと面白い事にはならないという教訓である。その余白を愛でる事で長年の間の成長や変化も楽しめるというものだ。アーティストに物語性を求めるとはそういう事である。

翻って宇多田ヒカルにはそういう面が実に乏しい。成長や変化がなかったという方の意味ではない。日本デビュー作にして頂点に立ち所属レコード会社はおろかレコード業界全体を支える立場に立ってしまったからだ。これでは「成長の余白を愛でる」だなんて悠長な事は言ってられない。年度末の決算を支える為に今すぐ目の前で結果を出さなければいけない。現場のスタッフレベルでは寧ろ「まだこんなに若いのに」という意識はあったかもしれないがヒカル自身が誰よりもプロフェッショナルであった為その「毎回完成品を」という要求に対して真っ向から挑む事になっていったのだった。続く。