無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

愚痴。

桜流しにもしミュージック・ビデオがなかったら、と考える――何の問題もない。初日の公開も、普通に音源のサンプルだけHPにUPしておけばよかったし、UTUBEには後日EVAの動画をフィーチャーしたあのショートバージョンを上げておけばよい。Beautiful Worldにも、ビデオはなかったのだから。そして未だに、UTUBEにもない。

寧ろ桜流しは今まで以上に映像に力点を置いている。GBHPV以上ともいえる。難しいのは、この2曲にみる映像重視路線が、この2曲それぞれの固有性に依拠するのか、1人の音楽家としての宇多田ヒカルの活動形態自体の変化なのか、今の時点では非常にわかりづらい事だ。それがどちらかわからないと、桜流しとEVAQの関係性もまた把握し難い。

桜流しに、EVAQから離れた所での物語はあるのだろうか。GBHPVは、"宇多田ヒカルの歴史"というものを費やした物語性に溢れた作品だった。『出会った頃の気持ちを今でも覚えていますか』、こんな事言われたら人間活動突入を前にして感慨深くなるなという方がおかしい。それが物語性だ。宇多田ヒカルと私達の、過去と現在と未来の関係性。桜流しにそれはあるのか。

微妙な領域に踏み込んでいる。ヒントが少ない。まだしも、ヒカルがEVAQの物語を知った上でこの曲を書いていた方がわかりやすかった。知らない人がこんな曲を書けてしまうか話が難しくなるのである。どこまでもシンプルに「宇多田ヒカルエヴァンゲリオンのシンクロ率は400%だから」と言い放つ事も出来る。確かにそれは正しい。でも、「何故そうなるか」を求めないと、私が納得できない。私が、ね。

ヒカルは別に、昔っからのEVAファンだった訳ではない。もしそうだったらFly Me To The Moonをあんな風にカバーしたりはしない。そして、ここでも、だからこそ「シンクロ率400%」の壁が立ちはだかる。大ファンで好きだからFMTTMを唄いました、ならわかりやすいし微笑ましい。知りもしなかった癖にエンディングテーマをしれっと歌って録音しているのが問題なのだ。FMTTMは超が3つ付くくらいベッタベタのスタンダードナンバーだからそれをカバーする事自体は珍しくもなんともない。しかし、ヒカルの場合シンガーソングライターでオリジナルを歌う事を生業とした歌手である。その中の数少ないカバー曲のひとつがピッタリエンディングテーマになってるなんて出来過ぎにもほどがある。今まで幾度となく指摘してきた事だけど。

それを前提にして考えるのはとても難しいのだ。「偶然テーマが同じになっちゃった」とかまたしれっと言われそうである。極端な話、桜流しはEVAQの為に作曲されていなくてもバッチリの同調を成していたかのかもしれない。ヒカルが自らの流れに沿って曲を書けば、庵野総監督も同じように…というストーリーを描くのは、容易い。だからこそわからなくなるのだ。もっと聴き込んで、眺め直してみる必要がありそうだ。