無意識日記々

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コレはまどマギのネタバレになるの、か?

桜流しを聴いていると、それがEVAQの主題歌であった事をしばしば忘れる。Beautiful Worldではなかなかそういった事は起こらなかった。当時の無意識日記に記してある通り、BWはEVAありきで生まれた楽曲である事を強く意識して接するべき曲だと考えていたからだ。

桜流しは、Hikaruが人間活動中という事もあって、本来ならその"EVAありき度"は物凄く高い。BWに関しては、「EVAが無くては決してこういう曲調にはならなかった」とは言えるが、もしかしたら、万が一EVAとのコラボがなくとも、幾らか違う形で発表される事もあったかもしれない、と言う事が出来るが、桜流しの場合は、そもそもEVAがなくては表立った音楽活動なんてしなかっただろうから、曲調がどうの歌詞がどうのと言う前に、そもそも曲が生まれていなかったのだ。EVAありき。出自でいえばそれは間違いない。

なのに、私が桜流しに対してそのような、"EVAからの独立性"を感じるのは、それだけ楽曲の存在感が増したからである。私個人はEVAを90年代から、つまり宇多田ヒカルを知る前から知っているから(更に云えばヒカルがEVAを知る前から知っているから)、その劇場版は一大イベントである。BWでは、そこに宇多田ヒカルが合流した、或いは2つが交わったという感じがしたが、桜流しについては全く主客が転倒していて、最早私にとってEVAQは桜流しを生む為の前座に過ぎなかったとすら思う位だ。それはまるでCasshernの誰願叶の関係と酷似している。

しかし、だからこそ、EVAQはよい作品になったとも言えるのだ。もし桜流しがなかったらゾッとする…そう痛感したのは、「劇場版魔法少女まどか☆マギカ新編:叛逆の物語」の最大の山場で暁美ほむらが映画最大の決め台詞を言った瞬間(或いは言ったか言わないかの瞬間)だった。あの時、私の頭の中ではAutomaticに桜流しが流れ出したのだ。もし"それ"がなかったら、「まどマギは完全にEVAを超えた」と私は断言する事になっていただろう。桜流しがあったから、EVAのステータスは守られた。叛逆の物語を観ていない人には何の事やらな話だが、要は、主題歌も映画の一部と考えれば、EVAはまだまだ時代をリードする強力な名前なのだと言える風なのである。

そんな事を言わなければいけないくらい、EVA以降の他作品の充実は凄まじい。しかし、宇多田ヒカルは1人でそれらを大きく上回る。そう断言させるだけの力感が桜流しにはある。彼女だけ見ていればいい。アニメとか映画とかラノベとか漫画とか小説とか、そういうのも敢えてチェックする必要はない。ただヒカルの歌。そこなのである。嗚呼新曲はまだかいな。いつまでも待つとしようか。