無意識日記々

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「飽きられても尚欲される人に」

何だか色々言いたい事があっても桜流しを聴くと「まぁ、いいか。」と思えてしまうのが恐ろしい。これだけ強力な曲が書けてあれだけ圧倒的な歌を唄われたら、仕方がない、仕方がないのである。

前に、「次に出すアルバムはSingle Collection Vol.3でいいじゃん」と書いたのは、1曲々々を端々まで味わい尽くす為の時間が欲しかったから、だった。そうなのだ。もどかしいのは「アルバム制作期間」なのである。この間、光は露出を控える。メッセも(時には)書き難くなる。この期間、我々はひたすら期待に胸膨らませ待つしかない。で、アルバムが完成したら今度は一気にプロモーション攻勢である。情報はどんどん矢継ぎ早に解き放たれ続け、今度はこちらも全く追い切れない。嵐が通り過ぎた後、「そういえばこんなのがあったっけ」「こんなこともあったの!?」と過去を悔いつつ振り返る始末。何もない時の手持ち無沙汰と、何かが始まった時の手の余りよう。ホント、どっちかにしてくれ。

常に1曲ずつリリースしてくれれば、こういった事はなくならないまでも軽減される。問題なのは、光がそんなアップダウンの激しい生活に対応できるかどうかだが、そこは曲によりけりでいいと思う。あらゆる楽曲をシングル・リリースする事になれば総てにタイアップがつくのは難しいし、曲によっては、例えばFINAL DISTANCEのように、テレビでのプロモーションをしない、などの対応をすればいい。また、本来ならシングル向けでない楽曲も出来上がるだろう。例えば海路のような曲はどうか。あの曲が人生に現れないだなんて私は耐えられないが、シングル曲として大々的に売り出す、なんてのには不向きだろう。こういう場合は、例えばインタビューは松浦さんの一本だけに留め光の露出は極力減らす。ジャケットにも顔写真を使わない。などなどの方法論が考えられる。広告宣伝費を抑えられれば、レコード会社もシングルを出しやすくなるだろう。制作費や宣伝費の負担さえなければ、CDなんて数百枚単位でリリースしたって大丈夫だ。ちょと極端だけど。

ただ、そんな風にすると、宇多田ヒカルという名前が頻繁にリリースデートに出て飽きられる、という展開も考えられる。ふむ。恐らく、そうなるだろう。

でも、それでいいじゃないか。

名前の出現頻度というのは確かに重要だ。リリースもそうだが、ライブは特に。幾らヒカルでも、半年に一度地元にやってきてくれれば有り難味は減り、気が向いたら行けばいいやとなるだろう。そうならない為に、渇望感をどう煽るかの匙加減が大切で…

…というのも、もういいんじゃないかというのが正直な所だ。前も書いたけれど、「半年前も観た。でも今夜もまた観たい」と思わせる位になれれば超一流なのだ。他のミュージシャンにこれを言うのは無謀極まりないが、宇多田ヒカルならその高い々々を超えてくれるのではないかという期待がある。

全曲シングルリリースについても同様だ。皆宇多田ヒカルという名を見飽きる。それでも今目の前で鳴ってる曲が欲しい、そう思わせるだけの曲を、光は作れる。いや、そこまでの曲を作って欲しい。そここそが、誰も辿り着いていない境地だと思うのだ。

飽きられてからでも尚欲させる事が出来るか。それが出来れば、宇多田ヒカルは真に史上最高の音楽家になれる筈だ。いや別に他人と較べて最高とかどうのという事ではない。ファンとして私が満足なだけである。あら、何か「まぁ、いいか。」と思いながらも色々書いてしまったな。まぁ、いいか。