無意識日記々

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雪ダルマ一緒に作ろう溶けるけど

こどもの頃は「何の為に生きてるんだろう?」とよく悩んだものだ。おとなになった今では、「生きる為」とあっさり答えられるようになったが、生きるというのは斯様に奇妙なものである。生きる為、生きていく為には生きていなければならない、とはなかなかある事ではない。

他の動詞、用言を考えよう。「走る為」には、今走っている必要もなければ、今走っていない必要もない。どちらでもいい。走っていない状態からだと「走り始める」と言うのが普通だが、これはわかりやすくしているだけで、今走っている人が次の瞬間に走る事も、今止まっている人が次の瞬間走る事も可能だ。「走る」の定義を突っ込んで考えれば"両足が地面から離れた瞬間"が生起して初めて走っているといえるが、それは走っている人にとっても止まっている人にとっても同じ事だ。走る為には走っている必要も走っていない必要もない。奇妙な言い方になるが、それは一瞬さえあればいい。時間が流れる事はない。

「生きる」事は、斯様に奇妙なものだ。生きる為には生きていなければならない。目的と手段が同一視される。他に、こんな事があるのだろうか。走っている人に「何故走っているのか」と問うた時、「健康の為」、「時間に間に合う為」、「追っ手を振り切る為」などの理由が考えられる。いずれも、走る事を止めた後に起こる何か、つまりこの場合「健康」「間に合う」「追っ手を振り切る」がそれぞれ達成されれば、もう走らなくてもよい。走らなくなる。

「生きる」事は、これにおいても奇妙なものだ。何しろ、生き終えた後に起こるのは死ぬ事だからだ。生きる者にとって、最も避けるべき事態。走って、走らなくなった時に得るものは何らかの満足感だろうが、生きて、生きなくなった時に得られるのは今まで逃げ続けてきた「死」だ。「走る」を例にとれば、決して「追っ手を振り切る」事はない。必ず捕まる。それを事前に知っていれば、走らなかったかもしれない。皆今生きていつか死ぬ事を知っている。でも生きる。生きる為に。

確かに、もし逃げ切れないとわかっていても敢えて走り続ける事を選んだ人が居るとすれば、私はその人に対して「あなたの人生は逃げ続ける事なんですね。たとえいつかは捕まるとしても」と言いたくなる。つまり、いつかは儚く終わる何かを続けるのは「人生」、つまり「人が生きる」事にとても近い。それが彼の生きる道、人生なのだと。

人が生きる、というのはそういう事かもしれない。いつか何らかの「死」を迎えるとわかっていても、続けてしまう事。だから「雪だるま 一緒に作ろう 溶けるけど」の一句は非常に普遍的な人生観を歌ったものだといえる。

一方、「何の為に貴方は走るのか」と問われて「ただ、走りたいから。走っていたいから。」と答える人も居る。健康の為でもなく、間に合う為でもなく、逃げ切る為でもない、ただ「走っていたい」人。高橋尚子のスター性は、「Qちゃんかけっこ大好きだから」という小出監督(当時)の一言に尽きる。

では、「何の為に生きるのか」と問われて「生きたいから。生きていたいから。」と皆が答えられるかというと必ずしもそうではない。ここも「生きる」事の奇妙な不思議を表している。そう言う事も出来るし、そう言わない事も出来る。「辛いけど、生きていかなきゃなんないからさ。」と言われれば、それ以上訊ね返す事はしない。そして、やっぱり生きていく為には生きていなければならないのだから、それは正しい。この強制力も、独特のものだ。

だから「死ぬ」事もまた、奇妙なものだ。死ぬ為には生きていなければならず、生きていればいつでも死ねる。現実には、なかなかうまくいかないものだが、基本的には生きるのは難しく、死ぬのはカンタンだ。そう思わせない所が生命や社会の不思議でもある。なかなかな魅力的な欺瞞だ。

目的と手段が同一である事で「一瞬たりとも途切れる事は出来ない」事態が生まれ、よってそれは時間の誕生である。時間は対象の変化を数と関連づける事で生まれる。「生きる」とは故に徹底的に時間的な何かである。

例えば、「居る」とか「在る」という動詞を考えよう。ある意味、「生きる」事より普遍的で広範な概念だ。岩石に「生きる」事を望むのは(比喩でなければ)無理な事だが「在れ」という事は出来る。実際、岩石は在る。そこかしこに。

「居る」と「在る」には、「いつ」「どこで」を付け加えるのが通例だ。あなたが今そこに居る時、ここやあそこに貴方は居ない。あるひとつの石ころがこちらに在る時、それはそちらやあちらには、ない。大体、こんな具合だ。

「生きる」は、こういう事にならない。「生きる」に対して「どこに・どこで」と訊いた時、「ここに生きてる」と答える。まだいい。「そこやあそこでは生きていない」とは、実にいいづらい。これが意味が通る為には、生きるという言葉を「生活する」くらいの意味に解釈しなおさねばならない。つまり、「生きる」というのは、究極的には場所は関係ない。まさに「この世のどこかで」生きていればそれでよく、そうでなければ死んでいる。「在る」とか「居る」とかはそこが違う。いつ・どこに居る在るとは点を特定する事だが「いつ生きる」と訊ねられれば時代を答えねばならない。つまり、線である。時空間のある点からある点まで続く曲線が「生きた」証である。点とは、つまり、その時その場所での存在であり、線とは生きてきた軌跡そのものだ。ついでと言っては何だが、明日は「点」と「線」が刊行されて4周年である。


次回は「知る」事の不思議について書きたいが、いつになるやらわからない。それまでは、生きる。