無意識日記々

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「ウタダヒラク?」『私開かない!w』

「あなたが待ってる」、あらためて沁々といい歌だ。私がこういう"ピュア"な歌を気に入るのは珍しい。歌は塗れているから歌なんだと思っているから。世の綺麗な事も汚い事も清濁併せて歌は在る、と。なので、こうやって言葉が純粋に響く歌を聴くと気恥ずかしくなるものなのだが、この歌はひんやりとしていて、そうやって火照った頬を冷ましてくれる。何故か、絶妙にバランスがいい。聴けば聴くほど、透き通る。

こんな素直なメロディーは、今時売れない。その上THE BACK HORNらしくない(笑)。彼らのサウンドに詳しい訳じゃないが、カップリングの「始まりの歌」って「いや俺らはちゃんと俺ららしい曲演れるし」っていう意思表示なんじゃないだろうか。それ位に、なんというか、違う何かがある。

ふつう、そういった"違う曲"というのは売れ線に走る場合に書かれるのだが、この歌は経緯を知れば知るほどそういった感触からは程遠くなっていく。仲間同士で意気投合してひとつのものを作り上げた―そういう"ピュア"なストーリーをハナから信じられない、という人にはこの歌は嘘っぽく、退屈に響くだろう。素直な気持ちを素直に歌った歌を、素直に受け止めるかどうかだ。

昨日だったかいつだったか、岡田斗司夫けもフレ1話を観た感想を書いていた。いうことどれもがいちいちもっともでどれも正論で当を得ていると思えるのに彼の出した結論は「つまらない。観ない。」だった。各論賛成総論反対、というのとは違うが、分析の妥当性に同調しながら「だから面白い」(私)と「だからつまらない」(岡田斗司夫)と結論が分かれるのは何故なのか。

それは、恐らく、彼が最早アニメを評論する為に観ているからだろう。評論対象としてけもフレは激しくつまらない。前も指摘した通り、やってる事は既にやりつくされた正統派中の正統派だからだ。特にSFに造詣の深い(らしい。私はSFは知らないのでわからない)岡田にしてみればいやもういいよという感じだろう。気持ちはよくわかる。

一方私はけもフレを娯楽として観ている。ただ楽しんでいるのだ。それについてこうやって語る事も出来るし語る事も楽しいのだが、それ以前に、アニメを観ている時間帯はフレンズたちの動きに一喜一憂して感情を動かしている。面白いというより、文字通り「たのしー!」から観ているのだ。評論を生業にしている岡田からすれば「そんな作品を観ている暇はない」といったところだろうか。

ジャンルは全く違うが、「あなたが待ってる」にも同じような事があてはまる。この歌、仮に宇多田ヒカルという宣伝文句がなかったら、一体どうやって売る気だったのだろう?と心配になるほど突出したものが何もない。果てしなく地味だ。捻りもない。が、素直にただ耳を傾けると、意外な程にメロディーと言葉がすらりんすとんと腑に落ちる。不思議ですらある位に。

はっきり言って、この曲ならではの"売り"なんてどこにもない。曲としては平凡と言っていい。しかし、そういう歌でないと出せない満足感みたいなものが、この曲には大きく在る。何か、よくわからない。

そういう意味で、"セールス・ポイント"としてヒカルの名があるのは意義深い一方で、音楽的に、宇多田ヒカルって要ったんだろうかという根本的な疑問が沸々と沸いてきた。このバック・ヴォーカルは要るのだろうか、このピアノソロは、このストリングス・アレンジは果たして要るのだろうか。考えれば考えるほど、「そんな事ない」と強く言えない自分が居る。一体、この歌のどこからヒカルの声が聞こえてきたのか、さっぱりわからなくなっていく。何だろう、聴く為のキッカケを与えてくれただけというか。バック・ヴォーカルもピアノ・ソロもストリングス・アレンジも、どれも非常に優れているからこそ、そう思う。そういう曲じゃなかったんじゃないかと。そんな曲にヒカルが乗り気で共同プロデュースまで務めたという事実が、何だかどんどん可笑しくなっていく。シンプルな歌に抱く複雑な気持ち。ちょっと試されてる気もしてきた。何か、楽しいw