無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

前回と大体同じ話を違う書き方で

「流星ひとつ」をヒカルに読ませたくなかった(出来ればまだ読まずに居て欲しいのだが…)理由はシンプルだ。あんまりにも藤圭子さんの考え方やらエピソードやらがヒカルにそっくりなのだ。確かに、普段であればそれは「いや〜あんたら一卵性母娘やね〜やっぱ!」と冗談めかして囃し立てる事も出来よう。一応、軽口として通用する筈である。しかし、今はよくない。最悪のタイミングである。今、ああいったエピソードを見せつけて「あんたは母親にソックリだね」と言うのは、「あんた60歳過ぎたら自殺するよ」と言ってるようなものなのだ。怖い。

ただ、これは、心情的には是だが、社会的にはただの「思い込み」に過ぎない。ここを踏まえる事が重要である。幾ら「よく似ている事実」を並べ立てても、上述のような連想に「必然性」はない。よって、この事によって、ヒカルに著書を送りつけた(かもしれない)著者や出版社が責められるいわれはない。この区別は冷静にしなければいけない。

本当に失礼なのは、ヒカルは5歳以降、つまり人生の大半で病の母しか知らなかったのであるから、もっと昔のキラキラと若く輝いていた彼女を知って貰おう、という態度の方である。何故これが失礼かというと、彼(ら)は、あのメッセの全文をまるごと引用して後記に掲載しているにもかかわらず、その内容をまるで無視しているからである。

普通の国語力を持つものなら、

『誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。』

と書いた人が彼女の魅力を知らない筈がない、それどころか、誰よりも彼女の魅力をよく知っていたと言って然るべきではないか。実際、「流星ひとつ」の300頁余りを読み終わった後にこの一文に目を通すと、驚くほど簡潔に且つ的確に藤圭子という人間が表現されていると痛感せざるを得ない。その事を、文筆家である沢木氏が理解出来ない筈がない。芸術的ともいえる要約文である。300頁割いて描写した人物像を、たった一文に纏めてしまったのだから。

そう、理解出来ない筈がない事実を敢えて無視するのは、無理やりな理由をつけてでもこの本を出版したからったからなのだと解釈するしかないのだ。でなければ、彼にはもう文章の読解力がない。即刻引退隠居すべきである。

しかし、これでも、「大変失礼」というだけで、何かを法的に問える状況にはない。著者と出版社が責められるいわれは依然無いのである。


ここまでみてくると、照實さんの「厚かましくも」という憤りも無理はなかったのだな、と私自身も認めざるを得ない。彼は、自分が気分を害したというよりは、ヒカルがこの本を読んで動揺した姿を目の当たりにしたのではないか。であるならば、「絶対に許せない」という表現も出てくるだろうし、attitudeを示す、という心意気も、ヒカルの事を考えての言動だったと解釈出来る。即ち、該当の書籍は、この「流星ひとつ」である可能性が、私の中で高くなったという事だ。

まだまだ、冷静に事態を見守らねばならない。それに、今でも私はやっぱり「気持ちはわかるが出来るだけ自重すべき」というスタンスを取らせてもらいたいと思う。今いちばん大事なのは、冷たく酷い事を言うようだが、死んでしまった人の名誉ではなく、今生きている人の心の方である。前回と今回の推論が、全くの的外れで、今のヒカルの精神が頗る健やかである事を切に願う。どうせならこの本を読んで「昔のお母さんを知れてよかった」と笑顔になっていてくれたなら、どんなにいいことか。そうであってくれたらどんなにか…