無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

a set of out put and in put

ここんとこずっと考えてきたが、やはり「LIVEで復帰」するのがいちばんかな、と思えるようになってきた。センセーショナルだから、ではなく、寧ろもっと"やむにやまれぬ"理由から。

勿論、もし相当にコンセプチュアルなタイアップがあるのなら、その楽曲から復活してくれればいい。KH&EVAである。そこでは新しい悩みはない。Passionのような凄まじい難産が待ち受けているかもしれないが、それは言わばもう何度も通ってきた道だから。

「リスナーの顔が見えない」というのは、かなり大きい。どんな曲を書けばいいのかわからない。アイデアなんて幾らでも出るのだ。それを形にして歌詞をつけ、最後に編曲してミックスする時に「これでメッセージが届いてくれれば」と願う前に「いや待て。これが届いたとして"心に響く"人はどこにどれくらい居るだろう?」と悩み出したら挫ける。これはキツい。腹に力が入らない。

ならば今。皆の顔を見に行けばよい。今自分を待っていてくれる人は何を喜び、何を受け入れてくれるのか。何が昔と同じで何が昔と違うのか。その顔を実際に見れれば、制作の際(きわ)で挫ける事はなくなる。何はなくともまずあの(LIVEに来てくれた)人たちに届いて響かねばどうにもならない。それが見えているだけで随分違う。

しかし、実現は難しい。宇多田ヒカルというブランディングをどうするか。レコード会社とよくよく相談しなければならない。まずはヒット曲を出して復活を印象づけ、満をじしてツアーというのが王道の青写真だろう。長期的な視点に立ってもそうするべきだと思う。しかし、"そんなことを言っていられない"というのが私の現状認識だ。少々客が入らなかろうが空気が読めてなかろうが、金払ってまで歌を聴きにきてくれる人の目を実際に見れる事には換えられない。私は、それがとても大きいと思う。


もうひとつ方法がある。こちらはもっと地味だ。Kuma Power Hourの復活、即ちラジオである。声をかけてくれたピーター・バラカンがもう居ないのに、と言われそうだが、ラジオ番組なんて局を超えて復活するものだ。中川翔子の「東京リミックス族」など一年とたたずに他局に引っ越して復活している。時間は短くなったが中身は全く一緒だ。熊淡だって売り込めば手を上げるラジオ局があるだろうて。

そして、ラジオ番組をやるなら、今度は、トレビアン・ボヘミアンのように、皆からのお便りを大々的に募集しよう。今なら幾らでもフィードバックが貰える。電話FAXメールTwitter段幕LINE…幾つチャンネルがあるかわからない。それを利用しない手はない。それを通して、皆が今何に興味があるのかを知る。今何を聴いているか、最近どんなLIVEに行ったか、それを浴びるのだ。また音楽番組でいい。だが、リスナーに浸食されてみよう。

アウトプットはインプットとセットである。吸ったら吐く。吐いたら吸う。物事の基本は呼吸である。歌もそこから生まれる。幾ら天才だからって、自分から出すばかりではいけない。受け取るべきものは受け取って、ノシをつけて返してやれ。肉体も精神も経済も社会もそれで回っている。地球も、と書こうとしたけどそんなこと無かった。あれは止まっているのと一緒だ。止まっている誰しもがもれなく回っているのだから。何だかアタマがクラクラしてくるな。


つまり、LIVEかラジオだ。Tweenに「宇多田検索タブ」を常駐させている私でも、今、ヒカルが誰に向けて歌を書けばいいのかわからない。音楽の為に音楽を書ける人ならこんなに売れなかった。まだ学校に通っている頃はよかった。周りってのが何なのか悩む必要すらなかったのだから。待っている人は大勢居る。そして、彼ら、つまり我々のありようは大体Hikaruの想像通りだろう。しかし、それを実際に確かめるプロセスが必要なのだ。それ無しでうまくいくと言い切れるなら…それはそれで凄いので、構わない(笑)。