ヒカルの形成してきた時空は、強いて言うなら件の「ドラえもん時空」にいちばん近い。
私が最初に"time will tell"を聴いた時の感想は「既に一度人生を生きた老人が15歳の少女の姿と声を借りて歌っている」というものだった。達観した歌詞の世界観と本来なら紆余曲折の末最後に辿り着くバランス感覚を、彼女は最初から持ち合わせていた。有り体に言えば、そこには老人と少女が同居していたのだ。
以後もヒカルは、超越的な視点と等身大の視点を自在に行き来してきた。その末に、Passionの折にヒカルはこう言い切る。「22歳の今の私には、12歳の私も42歳の私も居る」と。これには本当に衝撃を受けた(のでこの日記でも何度も書いている)。過去の自分が今の自分を助けてくれる感覚までは理解出来るが、ヒカルにかかっては未来の自分すら今の自分自身の一部なのだ。"不定"にすら手が届く。発想の埒外だった。
ここらへんの感覚が「ドラえもん時空」に近い。今という時空と過去という時空と未来という時空が各々独立に存在し、その間をタイムマシンが行き来する。それはまるでヒカルの持つ世界観のようだ。そこでは、未来も過去も現在も等しく其処に在る。
決定的な違いは、勿論、ヒカルは生身の人間なので歳をとり、現在から未来に実際に辿り着いてしまう事だ。もし話を音楽や歌の歌詞に絞るならばそれは特に気にしなくても構わないかもしれない。31歳のヒカルは11歳のような瑞々しい感性の歌も歌えれば61歳のような老成した歌も歌えるだろう。それは今までとは変わらない。
そういった考え方を、ファンとアーティストとの関係にまで押し広げてみよう。水戸黄門ファンはいつも変わらないエピソードを観たくてチャンネルを合わせる。コナンを観たい人の中には、黒の組織との戦いが進展する回だけチェックする人も居るかもしれない。ワンピースの続きが気になって仕方のない人、はい私ですね。単行本派なので我慢の連続。というかワンピースを一気読みしたいがために週間少年ジャンプの毎週購読を止めた人間だったりします。いやそんな話は今はいい。
で、ファンとの関係を考えてみたのだが、コアなファンであればあるほど、ヒカルに要求するものはシンプルになっていく。「体調を崩さず元気で」「家族と仲良く幸せに」―つまり、変わって欲しい欲しくないとか、成長や進化を見せて欲しいとかそんな事ではなく、要求は健康と幸福である。ここの読者でも4割くらいの人が「せやせや」と言っているのではないか。「喉を潰すくらいならライブ延期してくれよ」と、高い交通費と宿泊費を払いながらも思うファンが多い。いやどうせ休むなら当日午後じゃなく前日午前までに決めてね、程度は思いますけれどね。
なので、ヒカルのファンは音楽的にどうのこうのというより、まずその時の年齢なりの健康と幸福を望んでいる。もういい歳なんだしそろそろこどもを生んで…なんて言うとヒカルは鬱陶しがるだろうが、昔の日本ではそれくらいお節介に他者の幸福を提案していたのだ。そこらへんは文化の違いなので互いに歩み寄るしかないのだが。
という訳で、困った。ドラえもん時空の話を用いて今後の音楽性の変遷や進化について語ろうと思っていたのだが、自分を含めてファンの方にそういうニーズが…無いとは言わないまでもプライオリティじゃないんだな、うん。健康や人生を犠牲にして、或いは捧げて音楽を…だなんて思っている割合は凄く少なく、寧ろ健康と幸福を反映させた歌を聴かせてもらうのがいちばんなのか。困りつつも結論に納得してしまうなぁもぉ。実際、"要求"するならそれだなぁ。じゃあもうちょっとファンの方をライトな領域にシフトさせて考えてみるか。それでまた違う景色が見れるかもしれない。どーれどれ……。