サザエさん時空と対極にあるのは、作品の中の登場人物が読者や視聴者とともに年月を重ねる物語なのだが、こちらはサザエさんのような代名詞となる"決定的な作品"というのがない。というのも、このタイプの作品はそのまま各世代に散らばっているからだ。なのでネーミングには困る訳だがまぁ暫く「アンチ・サザエさん時空」とでも呼んでおくか。
このテのミュージシャンは結構多い。ずっと同じ世代を相手にしている為ファン数は目減りしていくのだが、一方で年齢層が高くなる為購買力が飛躍的に上がる。日本の歌謡曲歌手はその手法をとる人が多い。早い話が、コンサートをディナーショーなどに切り替えて客単価を上げるのである。あの人ここ数年テレビ出てないね〜人気が落ちたのかな?と思っていたらテレビ以上に稼いでいた、というのはよく見掛ける話。これはこれでアリだ。
前述の通り、この2つの魅力を両方取り込もうという試みも進化している。「名探偵コナン」はその代表格で、サザエさん時空に縦糸の物語を織り込む事で一度ファンになった人間を離さず、一方で新しい世代のファンも着実に取り込んでいる。これが更に進化したのが「ワンピース」で、サザエさん時空ではない癖に物語の進行が極端に遅く、連載も放送も17年に達するというのに劇中の年月は途中すっとばした二年を入れなければ半年程度しか経っていない。なんかもうそれぞれ凄い。
さて、こんな考察を続けていると読むのが面倒になってくるので主題に移ろう。宇多田ヒカルファンは、どの時空に住みたがっているか?という話。
これがさっぱりわからん。ヒカルの歌詞が"年相応"と感じられたのは1st、よくて2ndアルバムくらいまでで、それ以降は年齢不詳というか何でもありになっている。単純に、学生やってた頃のライフスタイルと専業音楽家のライフスタイルとの差なのだろうが、それ故歌詞から全体の"物語"を推察するのは難しい。これがグループだったりアイドルだったりすれば歌手は役者とばかりに歌詞は歌詞と割り切れるのだがシンガーソングライターはどうしても私小説的に捉えられてしまうというのは毎度指摘している問題点である。次の曲はどうしたって母との関係や結婚との関連に探りを入れられる。サザエさんを観ている人は長谷川町子の描いてる時の境遇なんて考えた事もないだろうに顔出し自作自演屋は何とも因果な商売である。
この、独特な「ヒカルさん時空」について来れてる人間だけが今ファンをやっている、という見方も出来る。その内容とは…という話の展開にしていくとまた長くなりそうなので続きは次回のお楽しみ。