無意識日記々

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事前認識の共有に手間取るの一例

ラジオテレビは「放送」というシステムと「番組」というコンテンツを分けて考えるべき、という話だったな。

情報網と計算機の普及で、今や「放送」まではいかなくとも「番組」を(制作して)「発信」する事は驚くほど容易くなった。スマートフォンひとつあれば録音も再生も出来るのだから。

しかし、それが人々の興味を惹くかといえば別で、まず面白い番組を作るのは至難の業だし、それを皆に伝えるのは更に難しい。

ラジオテレビの「放送局」は、その特性を活かす。チャンネル数を絞り込み選択を容易にする。そのリーチ数の大きさを利用して大きな広告収入を得る。それを元手に才能を集め予算を注ぎ込み番組を作りそれがまた衆目を集め広告収入が入り…というサイクルでずっとやってきた。その強固さは皆さんご存知の通り。

「テレビはオワコン」と言う人も居るが、なんのなんの。確かに下り坂かもしれないが、絶対値ではまだまだ使える予算の額が違う。人件費が確保出来るならそれに見合った才能がオファーを受けてくれるのだから、総体的にこちらの番組の方が面白くなる。それは今でも変わりがない。

ただ、その、「放送局」としての利点を知るあまり、インターネットの活用に及び腰になったのは痛かった。戦略として間違っているかどうかは別として、ネットで同時配信すれば確実に(現実の)視聴率が上がるのにそれをしなかった。ラジオの方は漸く全国で基本的に総ての放送局の放送を聴けるようになったが、有料だし海外では聴けない。多くのインターネットラジオをみればわかる通り、商業的な強度は別としても音声の世界配信に技術的な障壁は何もない。寧ろ技術を駆使して聴けない地域を作り出している。あれだけ番組中に「是非聴いてくださいね♪」と言っておきながら聴きたがっている人を締め出しているのだ。これは、事情は異なるものの地デジも同様である。

ここで何が起き始めているかというと。無料放送が「番組に触れたいと思っている人」に対して有料を提示したりアクセスを拒否したりという、今までとは印象の異なる事態である。今まで、そんな事を意識した事はなかった。テレビもラジオも、スイッチを入れてダイヤルを回したら必ず観れたし聴けたし。インターネットとコンピューターのもたらした"自由"のせいで、意図的に"不自由"を作り出さねばならなくなった。そこが潮目の変わり目なのだ。

なので、様々な諸問題(著作権等)を解決すれば、放送局は同時配信によってあっさり復活するだろう。先述のように、あれだけの広告収入で番組を作る以上素人に勝ち目はない。電波を持っているというのは想像以上に強力なポイントなのだ。


……なかなか本題に辿り着かないな……(汗)。