無意識日記々

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ヒカルちゃん不在を憂う女が1人

ナタリーの林檎姐さんのインタビューを読んだ。謎のヒカルちゃん推しは一体何なんだ(笑)。SWITCHに絡めたところで滔々と語り出すのはまぁいいとして何の脈絡もなくインタビューをヒカルちゃんへのラブコールでしめるのは一体。これは完全に思い人である。思われ人。

インタビュー全体としては、Jpop職人としてシーンに対する責務を果たそうと悪戦苦闘する姿が伝わってきた。本来、新宿系自作自演屋として裏街道をひた走るというかサブカルチャーカウンターカルチャー的な立ち位置に居るべき人だと思うのだが、過去の過ぎた成功に引っ張られる形でシーンを牽引する役割を引き受けているのは、なんというかいい人だなぁと。これやってくれる人が出てきたら私は身を引く的な発言は本音なのだろう。今の私のポジションは必要なんだけど私がやる必要はないじゃない、と。

先日それを痛感させられたのがラジオでのオンエアだ。林檎姐さんに続いてテイラー・スウィフトの曲がかかったのである。音楽に対する集中力は寧ろ林檎姐さんの方が高い。アーティストシップも上だ。しかし、PopMusicとしての出来映えは完全にスウィフト嬢の方が上だった。何だか妙に物哀しくなった。

これは、どういうことなのだろう。端正に作り上げているのは林檎姐さんの方なのに。以前スウィフト嬢の事を「悪魔に魂を売り渡している」と表現したが、あぁそういやこれ"スウィフトがメフィストに"っていう洒落だったんだけどそれはまぁいいとして、完全に「他者の音楽」として振り切られて作ってるのをみると、嗚呼、かなわないなぁと痛感する。

これは、もしかしたら個々人の技量の問題ではないのかもしれない。他者の音楽((c)渋谷陽一)として生を賜るPop Musicは、なんというか、大衆に受け入れられなければ存在価値を失ってしまう。そういう意味においてそれは純粋な商品であり、プロフェッショナルであり、即ち"趣味でPopsを作る"というのは有り得ない。

しかし、今の日本では、たとえそうやって振り切って商品化した作品であっても受けるとは限らない。いや、きっと高確率で受けないのだ。その"恐怖心"が無意識の中で蔓延ってしまっているのではないか。対して、スウィフト嬢の活躍する米国ではまだ大衆がミュージシャンに"信頼"されている。振り切って作ったものを買ってくれる土壌がある。そういう意味においては、Pop Musicは市場の存在があって初めて生まれてくるものだともいえる。


ここから先は鶏と卵である。Popsを放り込まないといつまで経っても市場は活性化しないが、かといって今は放り込む先が見当たらないのだ。従って、林檎嬢のように、彼女はあまり気づいていないかもしれないが、まずは今までついてきてくれた人たちに届くものをという所から始めてしまうのである。本来の彼女の特質からすればそれが正解なのだが、Pop Icon椎名林檎としてはそれではちょっと、となる。ジレンマである。

そういう現況を踏まえた上で、ユミちんがヒカルちんにラブコールを送っている理由を考えてみると、という話からまた次回。