無意識日記々

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頼もしき哉ヒカルちん

ヒカルちんの凄いところは、そういう振り切った楽曲をあっさり(に見える形で)作って出してしまえる所だ。あ、前回からの続きね。

もう4年前になる訳だけれど、Goodbye HappinessとCan't Wait 'Til Christmasの振り切れ方は素晴らしかった。よくもまぁここまでPopな曲を両面から(バラード&ダンス・ナンバー)作れるものだなと。ここが、ユミちんに無い才能なのだ。妄想宇多うたラインナップでもキャンクリを吉田美和に歌わせていたが、「なんだこのドリカムみたいな曲」と人に(って俺以外あんまり言ってない気がするがまぁいいか)言わせておいて、リスナーを小馬鹿にした感じがまるでない、誠意を込められるところが恐るべき才能なのである。

ユミちんの場合、誠意を込めれば込める程曲はコアになっていき、ファンは喜ぶだろうけれどそれはPopsから離れる。彼女がPopsを引き受けるその態度は、喩えていえば旅館の女将のようだ。「お客様に失礼の無いように誠心誠意おもてなしを致します。」と。しかし、こういうプロフェッショナリズムには必ず休日が必要だ。彼女は休みなく働いているので、どこで休んでいるのか疑問だが。キャリアの中でやりくり出来ているのだろうか。

この、ヒカルの独特の感覚は何かと言うと、「大衆を対象化していない」という感覚である。スウィフト嬢もそうだし、マドンナやレディ・ガガもそうだが、大衆は攻略する対象であったり、時には跪いて奉じ尽くす対象であったりする。その距離感が"おもてなし"に昇華していくのだが、ヒカルの場合は大衆は自己の一部である。或いは"自己"という超抽象概念に自我を打ち消して溶け込んでしまえるのだ。だから、Popsという範疇に居るにも関わらず、旅館の女将ではなくいわば…嗚呼、恋人みたいなもんだろうか。難しいところだが。

これが、クラシックやメタルやジャズならわかるのだ。格式と様式を確立したジャンルに於いては、演者も聴衆もその確立した抽象概念に身を捧げてしまえる。メタラーにステージの上も下もなく、あるのは音楽と全員の大合唱だけである。アイアン・メイデンが"Heaven Can Wait"でステージにファンを上げるのは、メンバーに会わせる為ではない。ただ共に歌う為なのだ。

これはメタルに限らない。クラシックのコンサートに行けば、聴衆はお客様として尊重されるより先に、そこでの作法に準じる事を強いられる。そういう"内輪意識"は、どの特定のジャンルでも起こる。Xでもジャニーズでも何でもいい。

ヒカルの場合、そういうノリで奏でる音楽がPopsという無定形・無定型なジャンルなのだ。つまり、二重に捉えどころがないのである。そこが特異なのだ。嗚呼、ユミちんこの文章読んでくれないかな。

それが、ユミちんに与える安心の源泉なのだ。自分と同じように音楽に聴衆に向き合って、それでもPopで居られる、Popに向かえてしまうヒカルちんは、まるで世界と私を繋ぎ導く光のトンネルのような存在だ。嗚呼、私の居場所が定まった。そう感じさせてくれる。文学少女を端の見えない図書館に連れて行って「好きなだけ本を読んでいいですよ」と告げてあげるような。

そんなヒカルが人間活動に入った意味を考えてしまう。大衆と一体化できない、自己の一部と認識できなくなったのか、それとも、自我に問題が生じたのか。わからない。

我々が自戒すべきは、大衆としてヒカルに嫌われない事である。口が裂けても言わないだろうが、彼女、いや彼女たちに「あんな奴らに歌を聴かせたくない」と思われたら、悲惨だ。難しい事ではなく、いい歌を聴いたら「いい歌だねぇ」と伝えるだけなんだが。自分も出来ていないから、もっとちゃんとせねばだわ。