無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

just enjoy the art of lyrics

歌詞の「あなた」と関連してよく言われるのが「君(きみ)」との使い分けだ。「私」と「僕」のようにかなり性差がハッキリ区別される(「私」は両性、「僕」は男性)のに対し、あなたと君は「なんとなく女性から男性へかな〜」と「なんとなく男性から女性へかな〜」と"ちょっとだけ偏ってる"感が漂ってくるので、歌詞を解釈する時に幅が広がりやすい。

結論から言ってしまえば、ヒカルの場合、それほど「あなた」と「きみ」の使い分けに神経を尖らせている訳でもない。「私」と「僕」も同様だ。「君と僕」の関係と「私とあなた」の関係を対比させる、なんて事もしない。では何故これらがヒカルの歌詞の中でも使い分けられてるかというと、毎度お馴染みメロディーの尺と音韻の制限によるものだ。

例えばPassionでは前半で『僕らは少しだけ怯えていた』『僕らはいつまでも眠っていた』と“僕ら”が二度出てくるが、最終パートでは『わたしたちに出来なかったことを』と“わたしたち”になっている。この僕らとわたしたちが同じ意味なのか違う意味なのか、文脈だけでは判断がつきづらい。いやそもそも、“僕ら”自体、ヒカルが「過去の僕、今の僕、未来の僕を合わせて“僕ら”」だと言っているくらいだから、歌詞だけでその"正統な"解釈を当てられる人は殆ど居ないだろう。それを考えると、僕らとわたしたちの違いなんて我々には到底"正しく"解釈できそうもない。

それより、それぞれのパートでメロディーに割り当てられる文字数がそれぞれ3文字と5文字だったからこうなった、と解釈する方がよっぽどわかりやすい。確かに、作詞という作業はどちらが先というのはたとえ本人ですら難しいので、予め文字数がそれぞれ3文字と5文字に決まっていたと言い切るつもりは毛頭無い。それどころか、Simple And Cleanにみられるように、歌詞に合わないからとメロディーの方を変えてしまう荒業だって使える。作詞と作曲両方を1人でやっているからの特権ではあるのだが。

そういった、恐らく錯綜したであろう創作の過程は我々には与り知らぬ事なので、今ある歌詞を出来るだけ素直に解釈するのが気楽である。そうなった時に”尺の都合"というのは明解である。それだけだ。

何より、歌詞の解釈に"正統性“、つまり作者本来の意図を斟酌するべきだなんていうルールは一切存在しない。読んだ人が読んだように、聴いた人が聴いたように解釈すればよい。そこで生まれた誤解や誤読の数々が次の創作を生むのだから。ただ、解釈に際して「ヒカルはこういう気持ちで書いたに違いない」と言い始めるのであれば話は別で、その場合は本人にしっかり問い質さなければいけない。それをするかしないかだ。今はしない。が、深読みのし過ぎは作詞者にとって"負荷"読みになってしまうという事だけは肝に銘じておいてうただきたい。いやまぁ、のんびり聴こうぜ。