無意識日記々

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日本語による歌と音楽の真のルーツ

前回の続きを書こうかと思ったけど面白くなりそうな予感がしないから止めにして(期待してた人が居たらごめんなさい)、他の話題を。


Hikaruはこの5年間、折に触れて「日本の歌と音楽のルーツ」について考え、調査し、行動に移してきたと思われる。薪能等に関心を示したのもそういった線での事ではなかったかと推察している。

日本の商業音楽市場は基本的に海外の音楽性を輸入し日本語を載せられるようにリアレンジして披露する、というサイクルを繰り返してきている。商業音楽に限らず、教育現場での音楽、或いは国公立の学校に学科を構える音楽もその殆どが欧米(特に西欧)からの輸入となっている。その為、わかりやすくいえば、日本国内のコンクールで受賞するより、国外で受賞する方が格が高い。映画でもそうだろう、カンヌやベネチアアカデミー賞での受賞の方が、日本国内での国際映画祭での受賞より重宝される。ひとつひとつの作品は兎も角、全体として、総てが輸入から始まっているのだ。賞の事をいえば、価値観すら輸入品である。

実際、日本から世界に飛び火した"音楽のジャンル"は果たしてどれだけあるのか。日本のレコードショップに行っても、ジャンル分けはクラシック、ロック、ソウル、ヒップホップ、ジャズ、フォークにブルーズ等々様々あるが、いずれも日本発のジャンルではない。演歌やJpopといったジャンルは確かに日本独自だが、日本国内限定のジャンル分けである。ようやくこの20年、アジア圏ではJpopに人気が出るケースも現れてきたが、それが一定の音楽性を指しているかといえば疑わしい。

こういった現状でHikaruは、日本語で歌う音楽について何を思ったのか。ルーツ、という言葉は結構難しい。例えば私の場合、小さい頃気に入っていた曲を並べたらブリティッシュロックの日本語カバーにソウルのイントロをリフ化したインストにアメリカの映画音楽だ。日本の曲じゃなくて英米の曲に惹かれていたのだからストレートに言ってしまえばルーツが日本の音楽かというと難しい。勿論それらの曲と共に童謡やアニメソングも聴いていたのだが、まず印象に残っているのがその英米の3曲なのだから仕方がない。いずれも、今聴いてもいい曲だなぁと思う。特にヒゲ(ダンス)のテーマは今聴いてもベースが走り出した瞬間に両手首を直角に曲げてしまうんだぞ。三つ子の魂百までだこりゃ。

何が言いたいかというと、音楽的ルーツと住んでる国や話す言葉はバラバラで構わないという事だ。実際Hikaruも、自身の根源にあるのはスコットランド的な感性ではないかと気がついた訳でな。それで何の問題も無いのだ。今後どんどんそこを突き詰めていけばよい。

それとは別に、"日本語で歌う"というハッキリとした事実がある。歌う時、音楽性というのは大きい。ロックにしろソウルにしろ、明らかに音楽性そのものが英語の歌向きに出来ている。音楽性が仕上がっていく過程においてヴォーカルが常にそこにあった為共に進化してきたからだろう。日本語が本当に馴染む音楽性、日本語が最も活きる"ジャンル"は、日本語の歌と絡み合いながら生まれてくるべきなのではないか、そう考えても不自然ではない気がする。

難しいのは、Hikaruが"ジャンル"を生み出すのに拘っていない事だ。ある意味Jpopの鑑である。他のJpopと異なるのは、他の雑駁性が"いろんなジャンルからの引用と寄せ集め"であるのに対し、どの曲もジャンルが困難な事だ。端的にいえば、日本で最も独自の音楽性を生み出せる人間が、今まで全く"公式"や"マニュアル"を編み出してこなかったのである。ここがややこしい。

Hikaruは日本語の歌と音楽のルーツについて随分詳しくなっただろうが、いちばんの真実を見落としている。もし日本語の歌と音楽について最もルーツとしつみなせる音楽、即ち真の日本独自の音楽を生み出せる人間がHikaru自身である事を。Hikaruは、日本史上最高の作詞家・作曲家なのだからそれこそが真実に最も近い。その人がそれを"拒否"しているのだから、そりゃあきっと、いつまで経っても見つかりっこないのである。