無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

「恩曲か。」

いつもHikaruの話になっていくのは案外無理矢理でもなくて、もうただ単に癖になっているから。事前に構成を決めていなくても大抵そうなるのだから習慣て恐ろしい。それに、自分の話をするよりHikaruの話をする方が概ね面白くなる。だから自然とそっちに寄っていく。それだけだ。

しかし、一応ここは"日記"なのだから、たまには自分の話をしてみてもいいだろう。面白くはないかもしれないが、読者の共感を1%でも得られる事があったならそれでよいだろう。


自分はどうやら、何が怖いって、「いいものをいいと感じられなくなること」「いいものをいいと認めなくなること」が堪らなく怖いらしい。日々の不安というのは、ほぼそれに占められている。

モーツァルトの軍門に下ってから、私は「老い」というのを激しく意識するようになった。何だろう、つっかえ棒が取れてしまったというか、「これから自分はただ死んでいくだけなんだろうな」と思うようになった。

自分で書いていて、余りに逆説的で笑ってしまう。「モーツァルトの軍門に下った」とは、彼の曲を、若い頃は「間違いなく"プリンシパル"だ」とは思っていたが、頑なにそれを認めたくなかった。それを認めるようになったのだ。上記の、「いいものをいいと認めなくなること」から「いいものをいいと認めること」への遷移は、100%大歓迎である筈だ。何なのだ、その矛盾は。

モーツァルト勝利者である。従って、彼を賞賛するのは勝ち馬に乗る事だ。即ち、たとえ彼の曲を一曲も聴いた事がなくても「モーツァルトは、素晴らしいね」と言っておけば、それは世界中で、世界史中で、常に"正しい"。それが心にも無い事であったとしても、その空虚な言葉は正しく、言ったものを正当化する。それに対する恐怖。つまり、自分の心で触れて感じた事と自分がちゃんと向き合っている事を確認する為には、モーツァルトを賞賛する言動は邪魔でしかない。紛らわしいのである。自分すら欺く程に。

しかし、モーツァルトを認めてしまうと、その保護機能が無くなる。つまり、私はそれによって老いと死に向き合う事になった。ターニング・ポイントである。

老いと死、というと何か大仰だが、実態は素朴だ。「歳とったなぁ。」と苦笑いする事が日常になったというだけである。

自分の感性が衰える事の不安。だからなのか、私は常に新曲を聴きたがる。聴いた事のない曲を聴いてその魅力を感じ取れたのならば、まだ私の感性が衰えていない可能性が出てくる。昔の名曲を賞賛するのは最早簡単だ。口先だけでいいのだから。「昔はよかった」と口に出す怖さはそこにある。

つまり、私は"新しいものが大好きな私"ではなく、単に衰えに脅えているだけなのだ。少し違うのは、脅えている自分を肯定している事。この不安と恐怖が消える事だけは本当に怖い。ありていに言って纏めてしまうと、「もし音楽を聴いて何も感じなくなったら私自殺しちゃうんじゃないかな」という事だ。心が音でできている人ならではである。

そんななので日々、「何か新しい曲を聴きたい」とぶつぶつ呟きながら生き、実際にリアルタイムで名曲に出会えたなら心から嬉しいが、体調や気分、巡り合わせによって「その日、なぜか何も感じない」という状態がごくたまに出てくる。その時の恐怖と不安といったら、無い。

そんな時に私が聴いた曲が"桜流し"だ。この曲は、本当に、何時何時(いつなんどき)に聴いても感動的だ。グッとくる。そして、私の感性は大丈夫だな、と仮初めかもしれないし錯覚かもしれないが、安堵する。グッときて、ホッとする。それが私の桜流しだ。

その時は何も思わなかったが、もしかしたら、この曲は、私の中にとてもありそうにないと思えていたのに実は片隅に隠れていた"自殺願望"のようなものを、事前に摘み取ってくれていたのではないか、と今振り返って思う。私の中のいちばんの恐怖と不安から、救ってくれたのだ。多分、二回くらい。だとすると、命の恩人である。恩曲か。いつまでも大切に末永く愛しみ口遊んでいきます。