無意識日記々

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なんとなく、ついている。

で。私が朝ドラを見なくなった理由はというと、ない。正確にいえば、わからない。いつの間にか見なくなってしまった。キッカケも記憶にない。

でも人が去る時なんてそんなもの。わざわざさよならの挨拶をしにくるのは未練の証であり、それは別に悪い事ではなく、別れは名残惜しい位がちょうどいいのだが、現実は大体フェイドアウトで、それを阻止する事こそコンテンツ業界の永遠の課題なのだ。「なんか知らないけどいつのまにかね」の一言の得体の知れなさな。本当、こればっかりはどうしようもない。

ヒカルがファンを失うのも…と話を続けてしまうと色々と大変なのでバッサリ切りまして。

まぁそんなだから私個人は「いつも見ていた朝ドラにヒカルがようやくやってきた」という風には言えない。なかたにさん羨ましい。「ようこそ、Hikki。」って言えるもんね。私の場合は「じゃあ久々に朝ドラ観てみるかなー」という感じ。フルで半年観るとなると安曇野を舞台にした井上真央主演の「おひさま」以来になる。随分とご無沙汰だなー。

なので、最近の朝ドラの雰囲気がどこらへんにあるか知らない。ヒカルの作風がフィットするかどうかも分析できない。総ては始まってから、だ。

とはいえ、流石に30作品以上(シリーズの3分の1以上)を見てきているので、それなりの"過ごし方"は、知っている。自分なりに半年間を過ごしてみたいと思う。

ヒカルは朝ドラを一作でも観た事が、観通した事があるのだろうか? 流石に156回ともなると、たとえエンディングが納得のいかないものであったとしても、「半年間欠かさず観続けた」という謎の達成感が出てくる。もう面白かったとか面白くなかったとかじゃない。もはや惰性ですらない。劇中に出てくる登場人物を皆実在の人物であるかのように扱い始める。ただひたすらその人の人生に併走するような、何か娯楽というより挨拶に近い。そういう枠であるように思える。

こういうドラマの観方をヒカルはした事がないのではないか。観て面白かったら観続ける、つまんなかったら観ない、とかではなく「取り敢えずつけとく」というノリとテンションでヒカルの歌が156回流れるのだ。よほどこう、“人畜無害”な楽曲でないとどこかで不平や文句が出てくる。文部省認定済み的な無難な内容でヒカルらしいフックのある歌詞とメロディーを組み込めるだろうか。

とはいっても、先日のツイートを読む限りヒカルはいつも通りに自分のペースで創作を行っていそうだから、朝ドラ云々という悩み方はしてなさそうだ。与えられたオファーは聞くけれど、となると実はいちばん重要なのは制作側がヒカルに何を頼んだかだよね。次回はそこら辺の話からいくか。