無意識日記々

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PV以外

へぇ、キャンシー発売から15年なのか。わかっちゃいるけど改めて言われるとやっぱり随分昔なんだな。

キャンシーのPVは屈指の名作と言われている。他にはないくっきりとしたストーリーがあるからだが、よくよく考えてみると(みなくても)そのストーリーは歌の歌詞と関係が深いとまでは言えない。ただ、キーワードである"Secret"を軸にして展開しているだけに、無関係ともいえない。なかなかに表現し難い距離感である。

これ、ただの映像として見た場合はどうなるか。短編サイレント映画という趣で、それなりに観れる。ここらへんが他のPVとは違う。独自の作品性が高い。そこに独立した存在である楽曲を持ってきて合体させてある。こういうバランス感覚は、PV制作に歴史に伴うノウハウの蓄積があった故のものか。

ただし、出来上がったPVは、映像単体とも楽曲単体とも異なる"また別の作品"である。

昨今は大体誰かが新曲をリリースするとYouTubeにサンプルを載せるのが恒例となっている。つまり、楽曲とのファースト・コンタクトが映像付きというのも珍しくない。すると、いきおい、その評価はPVという映像単体とも楽曲単体とも"違う何か"に対して下される。果たしてそれでいいものかどうか。

経験からして、"こんなPV見なきゃよかった"と思わせるものが世の中には山ほどある、と言わなきゃなるまい。楽曲のイメージを損なうどころか無視した映像の何と多い事か。つまるところ、映像作家とはクリエーターであって仕事人ではない。仕事は常に自分の撮りたい映像を撮る為の踏み台でしかなく、即ち楽曲もその為の材料の一つに過ぎない。「楽曲の魅力を最大限伝えよう」なんて殊勝な事を考えていたら映像作家にはなれないのだ。キャンシーみたいにバランスのとれたPVは稀なのである。


ヒカルの新曲は、そのPVに加えて、「朝ドラのオープニング映像」も視覚情報として大きなシェアを占める。それどころか、殆どの人にとってヒカルの新曲とそのOP映像はセットで記憶される。PVよりずっと残る。だが、PVと違い、恐らく、ヒカルはそんなところにまで口出し出来る筈もなく。ここは、運を天に任せるしかない。どうか、人の記憶に残らないような、地味で、歌を引き立ててくれる映像である事を願いますよっと。随分と手前勝手な希望だけれどもね。