無意識日記々

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理屈・オブ・リリックス

くどいようだが。20世紀に映像と音声が記録され保存され複製されるようになり、表現の幅はぐっと広がった。それまでは小説と挿し絵の組み合わせでしか表現できなかった物語が、書き割りと早着替えの衣装と黒子の振る舞いで申し合わせるしかなかった異世界の風景が、そのまま入力として、即ち画面と拡声器から放たれてこちらに届くようになった。19世紀以前に小説や絵画や芝居やオペラを構築していた人々の中には、20世紀に生きていたら必ずや映像と音声の芸術、映画を撮りたいと考えた筈だ。更に、ジオラマとトランプに不確実性を託した遊戯者達は、当然の事ながら今生きていればコンピューターゲームの制作に没頭していたに違いない。

そんな時代、20世紀を経て21世紀にも随分馴染んだ今、歌でしか表現できない事は限られている。実際、90年代の時点で、流行歌はいつだってトレンディ・ドラマを彩る添え物でしかなかった。テレビドラマはそれだけで視聴率20%30%をとっていた。歌番組でそれを出来ていたのは紅白歌合戦レコード大賞だけ、即ち年に一回大晦日だけだった。

そしてインターネットが言葉を遠くに運ぶという歌の役割を大幅に奪い去る。その中歌詞はどこに行くべきか。


おそらく、『Fantome』には、その展望みたいなものが幾種類も込められている、と私はみている。これだ、という方向性を指し示しているというよりは、あらゆり可能性を探っているのではないかと。『道』『俺の彼女』『花束を君に』…という風に並べただけで、果たしてこの作風はどこかに収束するのだろうかという疑問が湧く。もう、その印象のままの歌詞が並ぶのではないか。日本語タイトルのみが居並ぶのも、その実験性の表れなのだと。歌詞に何が出来るか。歌詞は何に成り得るか。そもそも、歌詞とは何なのか。どうして言葉とメロディが結びついたものはこうも、こうも生きているのか。その問いに対する回答の数々が眼前に広がるのを期待しつつさぁあと4週間で店頭陳列ですから皆様抜かりのないように何卒宜しく申し上げますm(_ _)m