60秒の切れ端で何を言っても仕方がないかもしれないが、歌詞で一ヶ所だけ気になっている点がある。自分には「君はまだ怒ってるかな」に聞こえる箇所である。
『Fantome』からの、いや『桜流し』からの、かもしれない、からのクセで、ついついヒカルの歌の相手は死んでいる事にしてしまう。我ながら酷いクセだな。
なので、相手が元気に怒ってるストーリーだと、「へぇ、そうなんだ」とやや頭を切り替える羽目になる。いや嫌な事では全然無いんですが。その次の『意地を張らずにいられなくて』というのも、いじらしい。
多分『WINGS』のように2人が喧嘩していて、仲直りのタイミングをはかっているところなのだろう。本来なら気もそぞろで、2人の関係性は今後どうなるだろうと不安に駆られる場面なのだが、前述のような酷いクセを持つ私は「幸せそうだねぇ」と思ってしまう。喧嘩する相手が居る、相手が居て喧嘩ができる。お互い生きてるからこそできる。片方がいなくなったら、まったく叶わない事だ。
ただ、『大空で抱きしめて』の場合、「相手は本当に生きているのか?」と疑問に思ってしまう。『いつの日か会えたとしたら』という仮定は一体何なのか、もう二度と会えないのか、それともまだ会う望みがあるのか。どちらとも解釈できるが、ここで『君はまだ怒ってるかな』と言われると何が何だかわからなくなってしまう。
一応、一応である、今の時点では最初の60秒が既に編集されている可能性も考慮に入れておかねばなるまい。つまり、フルコーラスで聴いた時に歌詞がこの順序ではない可能性だ。切り貼り済み、と。流石にヒカルがそんな事は許さないと思うが、テレビの世界、テレビコマーシャルの世界の常識は世間一般の常識からは程遠い。相手へのディスリスペクトに関しては60年の歴史を積み重ねてきているのだ。『ゼンセ』程度で済んだヒカルの力はやはり凄いのである。嗚呼、余計な話をした。ヒカルが編集を手掛けている可能性もあるのにね。そちらのケースではフルコーラスで聴いた時にきっちりアハ体験が出来るように仕込んでおいてくれるだろう。嫌だわテレビに対する態度とヒカルに対する期待の露骨な違い。自分で嫌になる。
両方言える、というのはただ私がまだしっくり来ていない、というだけの事でしかない。ただ、仲直りする為に『WINGS』即ち大空を飛んでいける翼があったなら、という歌詞を書いたヒカルが今回も空を飛ぶ事を勇気とか思い切りの比喩として使っている可能性はあるな、とは思えた。『WINGS』が大好物であるが故についついその続編・改編的な作品を期待してしまっている。いけない、いけない。今日の私はいろんな意味で老害まっしぐらだな。たまには黙っておくべきなのかもしれない。「ここからの解釈は若いモンに任せて…」てなもんでな。
あとはそう、あんまりにも直接的過ぎて憚られるのだが、『大空』が「天国」の比喩だったらどうだろう?という読み方も『大空で抱きしめて』ではアリだろう。それにはもう少し歌詞が必要だが。
そして『雲の中』を勝手に「竜の巣」と解釈して「ラピュタはあの中に」とかやり始めるのはどうか。あれは息子と父親(出てこないけど)の物語だが『大空で抱きしめて』は再び娘と母親のストーリーになっているのか。気になる事だらけだが妄想や過解釈をやりすぎると後戻りできなくなるので今夜はこれ位にしときますわ。