無意識日記々

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アドリブ合戦と集客の工夫と

『Forevermore』はライブで、特にラストのパートをストレッチしてヴォーカルとギターとキーボードのアドリブ合戦に突入する事が期待される。いやもう是非やって欲しいね。

とはいえ、ヒカルはスキャットできるのだろうか? 発声や発音はいともカンタンにクリアできるだろう。即興を盛り込むのも、テレビの生放送でやってしまえるのだから可能だろう(Mステのキャンシーとか)。問題は"掛け合い"だ。他の楽器陣と絡み合いながらスキャットできるか。それが鍵になる。

ジャズ・ヴォーカリストなどはその場で即興で歌詞まで作って歌ってしまえる。他方、歌うべき歌詞を忘れてしまって即興でスキャットで必死にごまかしてみたら後世に語り継がれる名演になった、とか嘘か本当かわからない逸話もある。いずれにせよ実力派を自認するなら(別にしてないか)、ステージでそういうアプローチも期待したい訳だ。

そのまま『Forevermore』がライブの定番になればいい。常に変化と成長をし続けるヒカルに"定番"なんて似合わないが、この場合は中身で変化と成長を示し続ける枠組みの設置である。名演を重ねればそれを期待して足を運ぶ人も出てくるだろう。

そこなんだわ。どうしてもヒカルの場合、チケットがプレミアムになってしまって、送り手として「足を運んでもらう工夫」をするモチベーションが薄くなってしまう。来た人を満足させて帰す事には注力するけれども、そもそも来て貰う為に何かをしようという雰囲気は無い。これ以上来られても困る、位に思ってそうだ…いやそれはないけれども。

それを恵まれていると捉えるかぬるま湯と捉えるかは難しいところだが、ヒカルが「それでいい」と思うかというと、なんかそれは違う気がする。「あいライブをし続ければ自然とお客さんは増えていく」というのは全くの真実で反論する気も起こらないが、何かこう「誘い込む」ような感性があってもいいように思う。

2つのレイヤーで同じ事を言っている、と思う。バンドでアドリブ合戦に興じるのも、お客さんに来て貰う工夫を施すのも。相手の感情を察知し、こちらからアプローチを仕掛け、更にそれへの反応に対してまた新しく対応していく―そういう循環が、演奏にも集客にも必要なのではないか。

今までのヒカルはまさに"ソロ"・アーティストとして君臨していればよかった。存在自体が価値であり、ヒカルが曲を作れば、ヒカルが歌を歌えば、それで既に至高だった。それは今も微塵も変わらないが、対話の中に新しく生まれてくるものもみてみたい。その新しい可能性を『Forevermore』の中に…私は、"見たがっている"ように思われる。グループで活動しろとは言わないが、ヒカルの至高の頭の中と"それ以外"の作る淵と際(ふちときわ)がどんななのか、私は興味津々なのです。