無意識日記々

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『思われないには』

まだこのネタで引っ張るんかい。

Mステに出た時に退出限界時刻に挑戦してた身からすれば「立ち去るのが早い」と思われるのは織り込み済みだと捉えてたのだが、この、『そう思われないには』の一言が出てきたからにはそれじゃまずいと考えるようになった分変化があったとするべきか。

次から気をつけて3秒数えるようになってたら笑えるのだが、要するに「後ろ髪引かれる想い」とか「ずっと話してたい」とかの感情が無いんだわね。それはそれで仕方がない。ヒカルの相手の方が「折角会えたのに素っ気ない」「もっと話そう」と思ってるから余計「…早いなっ!?」と感じてるだけで、ヒカル自身は実は全然普通だったというのも有り得る。万国共通に愛される女宇多田ヒカル。これなら纏め方として綺麗だな。

ツイッターのお陰で「会話のキャッチボール」が可視化されて、メッセ&メールの時代より色々わかりやすくなった。これだけの返信を総て読む事は出来ないが、どんな人たちがヒカルをフォローしているのかというのがみれるのは有り難い。殆どの場合こういったケースを参考に普段何気なく書いてる「ライトファン」とか「顧客層」といったイメージを固めていく。いやイメージは固定化するもんじゃないけどな。

結局は人数や回数が嵩んでくると「本人の写し鏡」になっていく、というのが理想なんだがそれをするにはちょっとツイッターのリプライ欄は範囲が広すぎるか。一言呟くだけですぐWeb記事がアップされる立場、それはもうすぐに「別にファンでも何でもない人」が寄ってくる。そして、そちらにまでアピールできてこその大衆歌手ではある。

なりくんがインタビューでヒカルを「芸術家肌で自分の拘りを貫く」的な事を言っていたが、ヒカルの場合その拘りぶりが欲張り極まりないせいで様々なタイプの人間に受け入れられたい欲求まで叶えようとする為結局ポピュラーミュージックになるという構造が在る事にまでは言及していなかった。なりくんは気づいていないのか或いは自らのインタビューに関係ない領域だと判断したのか定かではないが、レーベル運営からソロミュージシャンという"逆行"を果たしている身としては学びの順序も逆なのかもわからない。

ヒカルも様々な順序が逆だったが、『In The Flesh 2010』を行った事でそこらへんはしっかりリセットされた気がしている。もうビッグである事、売れる事に躊躇がないというか。その躊躇いの無さが『思われないには』に繋がったのだとすれば辻褄が合うかもしれない。もっとも、ツイートを推敲する過程で間違って「為」を消しちゃったのだとすると(何故か私にはそう見えている)、ヒカルもまだまだ役割を演じている訳なので、お母さんへの憧れが薄れる事にはなってなさそうだ。まだまだ果てしない旅路だねぇ。