無意識日記々

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最初で最後の曲、『桜流し』。

うぅむ、アルバム毎の曲順構成の分類とか、話を始めると本が一冊出来上がるヤツだからな…これは手を出しづらい。

ひとまず、触れずに来てしまった6thアルバム『Fantôme』からの最初のリリース曲『桜流し』について一言添えとくか。

この曲がアルバムの最後になったのは、ひたすら単純に、この歌の後に置ける歌が(少なくとも『Fantôme』には)見当たらなかったからだ。強いて言えば『道』のリプリーズ(or別バージョンorリミックスorインスト)がもしあればそれだったかもしれないけれど、それでも意味はあんまり変わらないわね。それくらいに強烈な存在感と、通った後の荒野ぶりだったのだ。あ、だったら『荒野の狼』でもよかったのかな…無理だなー。(聴いて確かめてみよう)

そしてこの曲の非凡な所は、「リリース時点で持たせた以上の意味を持たせても揺るぎなかった」事だ。リリース日は2012年11月17日、EVAQの封切日だが、これは2011年3月11日の震災を睨んで作られた歌(と映画)だった事は間違いない。そうヒカルもインタビューで答えている(庵野総監督の言葉と共に)。そして2013年8月22日を迎え、『Fantôme』は2016年9月28日に発売された。7周年を迎えたばかりだね。

そうして『桜流し』は、『道』『花束を君に』『真夏の通り雨』などの後発の曲と共に弔いの一翼を任された。四年弱というブランクの長さや、他の楽曲たちとの録音時期の乖離とそれに伴う音質の差異がありながらもそういった要素をものともせず鎮魂と葬送の集大成としての役割を果たし切ったのだった。

これを偶然という言葉で乗り切るのは無理だ。スタンダードに考えるならば、最近のインタビューでも答えている通り、宇多田ヒカルという人は何気ない日常が常に危ういものだと捉えており、それは即ち、自分自身に降り懸かるかもしれない強烈な体験についてもある程度の予知や予測が利いているのがしれない。その中には、2013年8月22日のような事態も含まれていた、だから『桜流し』のような楽曲も事前に書けていた、そう考える方がより自然だと思われる。もっとも、そういう事態が起こり得ると予め想定しておくことと、それが実際に起こった時の自身の心の動きと感情の騒擾はとても予め想定できるようなものではなかったであろうけれども。

この例を考えると、今の『Gold ~また逢う日まで~』も、“現時点で託されている意味や意義を越えて”新しい輝きや役割を未来に於いて付与されているかもしれず、それに耐えうるだけの普遍性を既にヒカルから与えられていそうだから、次のアルバムで実際に担う役割を予想する為には、よりヒカルが持つ&ヒカルが楽曲に持たせれる普遍性についての理解を深めなければならないだろう。うん、シンプルにそれは難しい。なので、次回以降はもっと気楽なアプローチで行きたいわねぇ。