無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

プルトニウム2

プルトンはどこにある?」

あーすっきりしたw

余談はそれ位にして色々すっ飛ばして本題に入ろう。プルトニウムからの繋がりがさっぱり不明になってしまうが致し方ない。

不謹慎だ不寛容だ自粛だ萎縮だと喧しい昨今だが、天才たちの不謹慎さはとても表に出せない程だ。断言しよう。炎を背に乗せた黒い津波が押し寄せ慎ましく日々を営んでいた海辺の平和な人々の日常を根こそぎ流し去ったその映像とまがまがしい災禍の、爪痕どころか大空襲の後の焼け野原もここまで凄惨であっただろうかという事後の写真をみて天才たちは否応なく興奮している筈である。彼らのみる"風景"は、我々にはおいそれと届かない彼方にあるもので、表現力に卓抜した場合はそれを眼前の作品に込め得るものなのだが、今回の災厄の齎した"風景"を"懐かしく"思う天才が必ずどこかにいると思うのだ。流石に本人がそんなことを口に出すとは期待できない。なぜなら彼は彼女はまるでこうなることが必然であったかのような口調で語り始めるからで、それはまさに不謹慎そのものと受け止められてしまうだろう。数多の天才たちが隣を通り過ぎていったような人は多分"天罰"とか口走って顰蹙を買っていた気がするが、ホンモノの
ご当人たちは漲る興奮をどう抑えようか、なんとか口実をみつけて現地に赴いてその目にこの数十万人を路頭に迷わせ悲嘆の淵に叩き込んだその"力の在処"を焼き付けたいと切望している。まぁ解りやすい例としては映画監督とか画家とか写真家だろう。多くは本当に真面目に社会的使命に燃え僕らに伝えてくれる為に奮闘してくれているのだと思うが、中に必ず"不謹慎な天才"が居る。そう確信する。

浦沢直樹がそうだとはいわない。宇多田ヒカルがそうだとも思えない。光の場合は特に、今現在アーティストモードのスウィッチをオフにしている筈だから。凄惨な風景に絶句し、悲しみに彩られた小さくとも重い物語の数々に幾度も大粒の涙を流しているのではないか。今は、普通の女の子で居て欲しい。それは私の単なる願望なのだが、気持ちの優しいお腹の弱そうな女の子の顔と、燃え盛る怒りのクリエイティビティを帯刀する創作家の顔の間で自己嫌悪に葛藤なんてしていて欲しくない。こんなときに"人間活動"に入っていたことが幸いとなるような(どういう意味や)、葛藤とは無縁の、心の底から悲しめるひとりの人間であってほしい。春の夜の月に私が願うのはそんな身勝手な妄想だ。


自分でも何を書いてるのかよくわからんが、まぁ私が不謹慎であることだけは確かです。ごめんなさい。