無意識日記々

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幸不幸なんて右足左足みたいなものよ?

毎年8月6日の広島の話題をする度に8月9日の長崎についても触れるのが定番になっている。11時02分じゃなかなか黙祷出来ないからね。今年は日曜日。この日記の更新は無いだろうが、ゆっくりと時刻を噛み締める事は出来るだろう。

『日曜の朝』という歌はそういった時にも流せる。

『幸せとか不幸だとか

 基本的に間違ったコンセプト

 お祝いだ、お葬式だ

 ゆっくり過ごす日曜の朝だ』

これ、冷静に捉えると凄く過激な事を言っている。人間、誰しも幸せになりたくて、或いは、不幸になりたくなくて毎日を過ごしているもんだろうにそれを『間違ったコンセプト』と一刀両断するって全人類に喧嘩を売ってるようなもの。どんなパンクバンドだってここまでアナーキーになれたことはなかっただろう。不幸になりたがれても、幸不幸を丸ごと断罪できたヤツらは居なかった筈だ。

その上で、『お祝いだ、お葬式だ』とひとの笑顔にも泣き顔にも我関せず。どこまでも距離をとる。人類全員勝手にやってろ感が飛び出ている。8月9日の朝に聴くにも相応しい……と書くと流石に不謹慎が過ぎるのだけれども。

それをこうやって淡々と綴るんだから底知れないというかなんというか……と思っていたらそれから14年経ったら『誰にも言わない』の領域にまでやってくるんだからもう。こちらも「二人だけの秘密」でそれ以外の全人類を欺こうという企図。四面楚歌どころの話ではない。それでも二人で過ごすのが好きと言ってしまえるのは少し『あなた』にも通ずる所がある。母と幼子と思うから微笑ましいが、それ以外の関係だと危うく世捨て人だ。『誰にも言わない』はそこに片足突っ込んでいる。もう片足はこちら側。月夜の散歩をする度に片足ごとにどちらの世界も歩んでいく。異次元の音楽職人だ。

ヒカルには昔からどこかそういう傾向がある。放っておいたらSADEやTHE BLUE NILEみたいに8年も10年も浮世から離れて歌を書いたり絵を描いたりしていそうな。その“片側の危うさ”に触発されて私は自分も然して興味が無いくせに商業音楽市場がどうのこうのと毎回語るのである。それがヒカルを“もう片側”に繋ぎ止めて、アウトプットを促してくれるからだ。

宇多田ヒカルは途轍も無く優しい人だが、負けん気の強さもまた凄まじい。ただの探究心だけではテトリスカンストに到達しないだろう。負けた時の悔しさをバネに頑張る事を知っている。ヒカルが商業音楽市場に向いてくれるのも、「尻尾を巻いて逃げている」だとか「ひとりよがりの負け惜しみ」だとか言われると癪に障るからだ。だったらいっちょうやったろうやないかいとやり始めたら辞められなくなった、という結果今に至る。大変、有り難い。負けん気の強さは、持つべき友であることよ。(比喩)

ヒカルの二足の草鞋は片側ずつ別のもので、その二つのバランスで前に進んでいる。歩んでいる。それは例えば幸不幸のバランスであっても、いい。なんでもいいのである。「人は二つのことまでなら同時に手が出せる。なぜなら手は二つあるからだ。」みたいなことを昔ヒカルが言っていた気がするが、きっと両足もそんな感じなんだろうな。

──ちょっぴり風変わりな、真夏の夜の日記でしたとさ。