無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

再最賛美

楽曲の歌詞がイマジネイティブであればあるほど、PVの作風は困難を伴う。今から振り返ってもPassionPVの完成度は桁外れで(完璧とはいわないが)、確かにあれをもって一時代の終結、次のKeep Tryin' PVで大団円、エンドロールとみるのが相応しかったと思う。映像の面ではね。

ところがサウンドの方はここから更に進化を遂げた。ULTRA BLUEにはBLUEや海路といった次に繋がる楽曲があったし、ぼくはくまを皮切りにFlavor Of Life, Kiss & Cry, Beautiful World, Stay GoldにHeart Stationと成長した名曲群を連発してゆく。しかし、それに伴いPVの方は簡素化の一途を辿り、トドメの一撃ともいえたPrisoner Of Loveに至る迄基本的に"ただヒカルが出てきて歌っている"か"タイアップ相手の映像"で済ませてきた。

ある意味、音楽の成長に追いつける映像手法がみつからなかった、ともいえる。重層的な歌詞の意味を捨象されてEasy BreezyなPVをつくるよりは、歌詞を歌う姿を直接伝えた方がいい。その判断は正しかったといえる。例えば、『きみのそばでねむらせて』という象徴的な詞を直接映像化するには、きっとかなりの技量が必要になると思われる。まぁそれは初期からずっとそうなんだけど、それなら宇多田ヒカルの御姿を拝めた方がいい、という度合いがずっと強くなったように思われる。費用を潤沢に使えるようになっていってたとしても。

この流れを考えると、如何にGBHPVが素晴らしくよく出来ていかを再度痛感する。GBHの歌詞は、Passion以上に象徴的でイマジネイティブで、とてもこんな高みを視覚化できるなんてもんじゃないと思うが、それをヒカル監督は、自分の歌っている姿をフィーチャするというここまでの最近の手法を踏襲しつつ、利用できるものは総て利用する、駆り立てる方法で人々のイマジネイションを刺激した。

それは過去12年間の人々のヒカルに対する思い入れであり、この12年で激変した情報空間の文脈であり、そしてそれでも変わらず孤独を感じている画面の向こうの貴方の人としての素朴な思いである。『ありのままで生きていけたらいいよね』とギガントからメタモルフォーゼするヒカルは、自分の部屋から貴方の部屋へ向かってメッセージをUTUBEを通して直接届ける。そして、その関係性が世界中に広がっている。イマジネイションの広がりを、その関係性の広がりをもってして表現したこのPVは、World Wide Web全体を表現の場として用いた画期的な作品だった。ヒカルの詞のイマジネイションは、そこまでしないと受け止められない領域まで来ているのだ。