無意識日記々

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ぶらぶら

伊集院光の漫画技法の解説が白眉であった。星守る犬の原作漫画の話からの派生だったのだが簡単に纏めるとこんな具合。

お辞儀をしている人(犬だっけか)の絵、描写が漫画のコマに描かれている。さて、ここに「こんにちは」ということばを置くときに、どのようなやり方があり、それぞれどのような効果があるか。

1.フキダシの中に写植文字で「こんにちは」と書く。これは、お辞儀している人が実際に音声として「こんにちは」と発話している描写となる。

2.背景に直接(つまり、フキダシを用いず絵の中に)写植文字で「こんにちは」と書く。これはお辞儀している人が心の中で「こんにちは」と思っている心理描写となる。

3.背景に直接、今度は写植文字ではなく書き文字で「こんにちは」と描く。これは、何の描写になるかというと、この人がお辞儀をしているのは「こんにちは」という挨拶の意図があるのですよ、という周囲への解説となる。

特に3の分析が面白い。1と2の場合はいずれもお辞儀している人から発せられる声であったり思いであったりする訳だが、書き文字(描き文字って書いた方がいいのかな)にした途端、それは他者への説明となる。この時の説明の主体と他者の組み合わせは、登場人物同士であったり作者と読者であったりと文脈によって様々だ。上記の"周囲"には、だから、漫画の中の世界でお辞儀をしている人の周りに居る人であってもいいし、今読んでいる我々読者であってもいい。いずれにせよ地に書き込まれた書き文字は周囲への説明として機能する。

それで思い出したのが鳥山明の書き文字である。アメコミからの影響なのか、例えば彼は何かが爆発したときカタカナで「ドカーン!」と書く代わりに「BOMB!!」と英語で書いていた。まぁ80年代の話だ。日本語の漫画にそういう描写があるのは、英語のコミックにそれがあるのとは、どこか違っていた。センスがいいようないなたいような、微妙な感覚である。

「BOMB!!」や「CRUSH!!/CRASH!!」を日本語の書き文字で「爆発!」とか「破壊!」とかに書き換えることは、通常できない。しかし、英語圏の人にはそういう意味としてこの英文字の書き文字は響いているはずなのである。英語をわかっているような、わかっていないような、知っているような知らないような、英語を単なる音声として捉える感覚と意味として捉える感覚が中途半端に混ざり合っている日本人ならではの勘所を鳥山明は突いていたような気がする。

そこでふと思い出したのが長年の疑問である「バイリンガルのヒカルは、日本語曲の中に英語を差し挟むことをどう思っているのだろう?」という話だ。全編英語詞の曲を書く時と、何か感覚は違うのだろうか。

既出の発言の中に「日本語はリフレインがやりにくい/英語はリフレインがやりやすい」というのがある。同じフレーズの繰り返しは、英語の方が適している。あれだけ和風な歌詞をフィーチャしているのにサビは英語のtravelingなんかは典型だろうか。

一方で、ヒカルは英語に合うメロディと日本語に合うメロディがあることに自覚的でもある。それを考えると光とS&Cと嘘愛の3つの関係はどうなっているかで頭を悩ませることになるのだが、今回ひとつ言えるなと思ったのは日本語の歌に登場する英語のリフレインは、鳥山明の「BOMB!!」の書き文字と似た効果があるのではないかということだ。(書き忘れていたけれど、この手法が彼のオリジナルかどうかは知らないっす)

日本語の中に現れる英語の響きは、効果音のようにただの音声のような、でもなんとなく意味は知っている、感じとれるような、そんな微妙さを含んでいるのではないか。ひとが「traaavelin'♪」と口遊む時、七割方ただの音声のつもりではあるのだが、三割くらいはなんとなくここから旅に出る、何かが起こる、どこかへ行けるような高揚感を感じているのではないか。この、"なんとなく"というのがポイントで、はっきりと意味を限定させないことでサウンドがひとに齎す効果を殺さない役割があるのではないか。漫画の地の書き文字のように、サウンドの方向性の案内役も兼ねているのではないだろうか。


あー、このテーマ、まだまだ膨らんでいくな…手に負えないやこりゃ。