無意識日記々

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手袋をはめた音

私がFlavor Of LifeのBallad Versionが先に発表されていた時に駄々をこねていたのも、This Is The Oneのメロディの出来が前作を上回るのにあーだこーだ言っていたのも、結局は「光の作った音が少ない」という事に尽きる。クォリティ云々の前に、あの音作りに触れていると安心するのだ。

サウンドのどの部分が、というのは正直よくわからない。彼女と私ではリズムセクション、特にベースラインに関する考え方がだいぶ異なるのでこの私が感じる"親密な感覚"は奇異ですらある。強いて挙げればサウンド全体を構造的に捉えること、三宅さんが音像を波に喩えるなら光は風景として捉える、だっけ、そういう感覚は共通しているかもしれないが、どうもそれだけでは説明がつかない。

いちばんもっともらしいのは、やはり音色の選定か。これはいちばん感覚的な部分で尚更説明が難しい。ただいえそうなのは、そうだとすれば宇多田光は宇多田光の事がだいぶ好きだという事である。これだけ聴けばなんのこっちゃだが、光が光の音を作って出してきた時に、私はかなり直接的にそこに光の存在を感じる。彼女の存在自体を。とはいえそれも常に、という訳でもない。光の音なのにそうではないと解釈した事もあるし光の音じゃないのにそう解釈した事もある。絶対でもなんでもないんだけれど、全体的にはそういう感覚がある。

となれば、その光を感じさせるサウンドを光が好んで出しているとすれば、光は光の事が好きなのだ。音楽家とは妙なもので、っていや音楽家に限らないか、自分で作ったのに気に入らない、という例もあれば、自分らしくないからよかった、なんていう言い方をする事もある。作者自身を感じさせる事が必ずしも好ましい訳ではないのである。

そういう"光の指紋べったり"のサウンドより、ほんの少し離れた位の音がいちばんよく売れる、のはFlavor Of Life Ballad Versionの成功が示唆的だし、光が発売された時の昔からのファンの反応とそれ位からファンになった人の反応からも、なんとなくわかる。昨日為末大が、「社会性とは役割を演じれること」(正確な表現は直接確認お願い)と呟いていたが、もし光の社会的な役割が「ヒット曲を出すこと」であって、また人間活動を通じて身につけるものが社会性であるならば、やはりその"ほんの少しばかり離れた感じ"の距離感を保つ方法論に傾倒するかもしれないが、そうなると私は一抹の寂しさを覚えるんではなかろうか。でもピーマンの天ぷら好きだから、たまにはほろ苦いのも悪くはないでしょ。