無意識日記々

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ノーベルノベルについて述べる

そうか〜川端康成か〜それは気づかなかったな。詳しくは銀花帳でググるよし。

まぁ、気づかなかったといってもそりゃそうだ、私ゃその該当作品読んでないからな。光がどんな作品に触れているのかは、一通り身につけといた方がいいかもわからんね〜。

川端康成の作品は、いつも何となく後回しになってしまう。遠くから眺めていても"これは素晴らしいだろうな"と何となくわかるなぁ、と私が感じている為、そこで気持ちがあやふやになってしまうのだ。いつも書いてる"モーツァルトは完璧過ぎて退屈"に通ずるものが、あるかもしれない。

この、何となくわかるという感覚は、当然私のただの先入観であって、何のアテにもなりはしない。が、私の行動がそれによって左右されるのもまた事実。実際、川端康成ノーベル賞を獲得していて、作品を読んでもいないのに「あぁ、そうだろうな」と納得してしまっている。三島由紀夫は確かに候補として名前が上がったろうな、遠藤周作は無理だったろう、とかも何となくわかる。わからないのは大江健三郎で、はてあのガチャガチャした思考のどこがよかったんだろうと未だに疑問符だ。時期によって全然違うのだろうか。村上春樹は微妙なラインだが「貰っても不思議ではない」感じかな。

この、作品を読んでもいないのに「何となくわかる」感覚は、音楽にも当てはまる。もしノーベル音楽賞があったら、日本でいちばんの候補は桑田佳祐だろう。宇多田ヒカルじゃないと思う。楽曲のアベレージはヒカルの方が高い。が、"popであること"に対する態度というか運命というか、どこかヒカルは遠藤周作にも通じる"至らなさ"を感じる。

桑田と宇多田の差をいちばん痛感したのは、テレビで彼Flavor Of Lifeをカバーしているのを聴いた時だ。FoLは"ノーベル賞級"の楽曲だが、桑田が唄った方がよりPopsとしての軽やかさが強調されているように感じた。具体的には、『ありがとうと君に言われると』の"君に"の唄い方の違いである。ここは本当に難しい。ヒカルは、メロディー全体の流れの中でエモーションが継続するように、わざと曖昧に唄っている。強弱の弱の部分である。作り手として、唄い手として楽曲の感情を優先させた唄い方である。

桑田の場合は、確かに同じように曖昧ではあるのだが、"メロディーの輪郭を聴き手がどう受け止めるか"を考えた上で"君に"の部分を唄っている。確かに、歌自体はヒカルの方がずっと感動的ではあるのだが、聴き手がメロディーの輪郭を全体として把握しやすいのは桑田の方だ。デビューしたての頃は"何言ってんのか全然わかんない"と揶揄されてた彼の歌唱法だが、音楽をPopに響かせる点に関しては日本人では誰にもひけをとらないだろう。

とすると、ヒカルの立ち位置は改めて奇妙なものだと思えてくる。何故Popになれたのか、何故売れたのか。未だによくわからない。ヒカルはわかっているのだろうか。少なくとも川端康成のように"遠くから眺めていてもそれとわかる"感覚は、ない。だから私を惹きつけてやまないんだろうな。まぁそれならそれで、いいのかもしれないな。