無意識日記々

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のってるかい

歌詞の中で乗り物の話を性的な隠喩で織り込む手法は洋の東西を問わず一般的だ。日本では雨上がりの夜空になんてのが有名だろうか。若い人は知らないか。要はそこで使われている単語、行くとか来るとか乗るとかいったタームがそのまま援用できること、車への愛着や愛情が人を慈しむ心に通じることなどがその一般性の由来である。

ヒカルの曲ではtravelingがその代表例だ。というか唯一の例だと言っていいだろうか。18歳になってこういう歌詞も解禁になった、という訳でもないだろうが内容は結構あからさま、ストレートである。

その一方で、乗り物として選ばれたのがタクシーである点も面白い。シンプルに考えて、光が普段の生活で使う乗り物が"運転してもらう自動車"しかなかったという事実の反映だと解釈できる。長年自転車の練習をしていなかった事から考えて、恐らく自動二輪免許、原付免許も持っておらずまた自動車免許もなかった筈だから、自分で運転する乗り物が存在していなかった、だからタクシーだったんじゃないだろうか。ロックで乗り物の歌となれば、やはり自分で運転してぶっとばせみたいな内容が多いからね。

カーラジオの出てくるHeart Stationもまた乗り物の出てくる歌詞であるが、こちらもまた乗せて貰ってる感があるが、ここで出てくるのは隠喩ではなく実体験に基づいたものだろう。この閉鎖的な空間は、居場所はすぐ傍なのにお互いの心は離れてしまった様子を象徴していて、居場所は離れていても通じ合う心を託したラジオの電波との対比を描いている。比喩との対比で表れる実体験に基づいた乗り物の使い方である。

とすると、同じく乗り物である虹色バスというキーワードはどういう由来や機能をもっているのだろう。タクシーと同様に、自分で運転しない光にとってバスは日常よく使う交通機関だろうとも推測し得るが、虹色という冠がその感触を薄らげる。性的な隠喩といっても"みんなを乗せて"とくれば愛情や愛着の表現とは結び付け難い。歌詞の中でちょっとエッチな話で直接盛り上がったりしているのは、逆にいえば虹色バスはそういった性的隠喩とは無縁である事を示している。


とすると、この虹色バスとは―という話は時間が尽きたのでまた稿をあらためて。