無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

tears in heaven and hell

はるかぜちゃんは才能溢れる女優だと思っていたが、流石に今日の一連のツイートにはびっくらこいた。

昨夜のアカン警察で前回よりも更にスピードアップした早泣き技を見せてくれたが、その"種明かし"である。

今までは"からだ泣き"といって泣いた時の身体の状態を感覚で記憶しておき、いざ早泣きの時は身体の状態をその記憶の感覚に合致させるという離れ業をやってのけていたらしい。

それだけでも凄いのに今回(昨夜放送分)は"せばめ泣き"という技法で挑んだらしい。詳しくは彼女のツイート(誰か纏めていないかな)を参照して欲しいが、端的にいえば"自分の世界"を極端に狭めてそれを失うのを想像するんだそうな。

些細な事でこの世の終わりのように泣く近所の保育園児の様子をみて着想を得たらしいが、その観察眼と洞察力、推理力、論理的思考能力、何よりすぐさま自分で実行してしまえる精神と肉体の制御能力は図抜けている。いやはや、ここまで才能溢れる女優だとは。お笑い芸人でもいいけれど。

この話で私が食いついたのは"世界を狭めれば泣きやすくなる"/"世界を広げれば泣きにくくなる"という洞察である。当方、このテの考察でこのレベルの普遍性をもった命題を他者から教えて貰ったのは(光とそれにまつわる種々を除けば)本当に久しぶりだ。目から鱗にも程がある。

光が20代中盤以降、やや泣き上戸になったという話があった。テレビでフランダースの犬の話を泣きながら(?)したり、ね。

先ほどの春名さんの考察によると、大人になればなるほどみえている世界が広がり、小さな事では泣かなくなってゆく、という話だったが、そこを更に抜ければ、大人としてひとつの仕事に没頭すればする程、また涙脆くなっていくのではなかろうか。

これは、保育園児が世界の終わりのように小さな事に大泣きするのと、同じようで異なる。園児はまだ外に広がる世界の広さを感じた事がない故の世界の狭さなのだが、大人の場合いったん世界の広さを確認した上である意味その広さを捨てて狭い世界に集中している。追憶の号泣になるのである。

光も、20代中盤は自分の仕事に集中する余り、視野が狭まって泣き上戸気味になっていたのではなかろうか。

一方で、もっと長い目でみれば光ほど視野広く世界を捉えている人間も居ない。ライブでお馴染みの"かかわってくれたあらゆる人におくる謝辞"でも顕著なように、ただ知識として存在を知っているというよりいちどきに世界のあらゆる場所を感じている所が凄い。エネルの心網(マントラ)のような、レイリーの覇気のような。おんなじか。

彼女は、それ位に世界を"感じて"しまっているから、時として全く涙が枯れてしまっているようにもみえるのである。喜び5gも悲しみ5gも同じ5g、幸せとか不幸せとか間違ったコンセプト。あらゆる感情がいちどきに視野に入ってしまっているから、幸せにも溺れられないし、悲劇のヒロインにもなりようがない。

そのニュートラルなフラットネスのシンメトリーが崩れて涙を流す時、光は世界の極一部に肉体性を伴って現出する。"地球を覆うガスになりたい"と不穏な事を言う女性だが、勿論生身のひとりの人間であって、本日も絶好調にうんこしている筈だ。

そのギャップを感じた時(ガスはうんこしない的な)に流す涙が、Fight The Bluesの"僕の自由"であり、何もかもを越えてしまった境地が『絶望も希望も成功も失敗もない/空のように透き通っていたい』テイク5なのだろう。前者は四角いリングという勝負するべき狭い世界だから涙は自由と解放の象徴として流され、後者は冬の星座にみるように宇宙全体が視野に入っているから涙も枯れ果てている。

そして恐らく、その狭い世界で流される涙に映るのがそこからみた"外の世界"なんだろうな。涙は世界の内と外を繋ぐ深い大河の滴なのである。