無意識日記々

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"We" is not everybody.

ヒカルの曲で合唱に合うのは、という事でぼくはくまと虹色バスと海路を挙げた訳だが…まずは虹色バスからいってみようか。

虹色バスは確かに合唱向きだと思う。そんなにキーも高くないし、たとえキーを下げても違和感は少ないんじゃないかな。やってみたことないけれど。ぼくはくまに次ぎ、みんなのうたにもよく似合う。悪くない。

しかし、この歌の歌詞がどういう内容なのかは、先に把握しておく必要が、あるだろう。賑々しく楽しいだけの曲ではない。いやまぁわかってる事ですけどね。

この歌の歌詞のポイントは、主語に「僕ら」が出て来ない事である。総て『みんな』、『みんなを乗せて』であって、「僕らを乗せて」ではないのだ。この違いは重要である。

だって、よく歌詞を読んでみて欲しい。ヒカルの歌の中でも、特に他者と共感を得やすい、いや、最早共感を得る事を目的とした歌詞なんだ。

『雨に打たれて靴の中までびしょぬれ』とか『遠足前夜は必ず寝不足』とかは"あるある"ネタだし、『満員電車で通勤通学』とか「みんなそうだよねぇ」と共感を得る事請け合いの"あたりまえ"フレーズだ。しかし、それは、今言ったように"みんな"の話であって、"僕ら"の話ではない。

この時期のヒカルが"僕ら"を避けていた訳ではない。そもそも、虹色バスの収録されているアルバム「HEART STATION」のオープニングは『We fight the blues』、"we"、まさに「ぼくら」「わたしたち」である。そのFight the bluesや次作収録のPoppin'では、『女は』とか『Boys & Girls』とか歌って"同胞意識"を強調していた。虹色バスは、そういった曲ではないという事だ。ただ、それを敢えてわかりにくくというか、誤解を招くようにしているのがポイントである。

『大きな声で歌を歌って』などとこの歌の流れで言われるとさもバスに乗った大勢が声を合わせて合唱しているような感じがする。ただ、もしそうだとしてもそれは「Everybody sings」であって「We sing」ではない。


理由は単純明白で、この歌の最後のメッセージが『Everybody feels the same』&『誰もいない世界へ私を連れて行って』だからだ。『みんなを乗せて』を『僕らを乗せて』に変えても歌詞として違和感はないが、ここは「We」と「僕らは」ではいけない。必ずEverybodyと私でなければ。だってさ、もし『誰もいない世界へ僕らを連れて行って』だとただの危ない厭世的な集団である。そうではなくて、「ひとりにして」と1人々々がみんな同じく思っているんだよ、というのがこの歌の、このアルバムの最後のメッセージなのだ。そこを外してはいけない。


だから、この曲を合唱しようというのなら、この点を注意しなければならないのだ。皆で声を合わせて「私をひとりにして」と歌うのだから、合唱の醍醐味とは何なのかを根本から検証しなくてはおいそれとは手を出しづらいとわかるだろう。

ヒカルもその点は心得ていたのか、『誰もいない世界へ私を連れて行って』のパートではいやに歌を沢山重ねている。特に、二回目の『誰もいない世界へ私を連れて行って』の部分はアルバム中最もコーラスを重ねて、最も多くの声部から成り立っているように聞こえさせるパートになっている。『Everybody feel the same』のEverybodyがどんな感じなのかをサウンドで表現したと捉えるべきだろう。それは、Weや僕らで捉えられるような纏まった塊ではなく、一人一人バラバラのEverybodyの寄せ集めだ。そう、Weは二人称複数形だが、Everybodyは三人称単数である。だから、この歌では『僕らを乗せて』とは歌わないのだ。これをアルバムの最後に持ってくるって凄いよね。(今更)