無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

こいうた

Apple And Cinnamonの美メロは何百回聴いても美しい。サウンドメイキングは何だか中庸だが、First Loveアルバムだってそうだったのだから大した問題ではない。いやホントにコレ生で歌ったの?凄いね、と生で聴いた人間ですらそう思う。

…今ちらっといらっときた人、正しい。私は悔しがらせる為に書いている。行きたくても行けなかった人は仕方がないけれど行けるのに行かなかった人は大いに後悔して欲しい。なので、これからも度々イラつかせますですよ。

話を戻す。AACは、光の歌唱の成長(或いは、変化)が最も端的に表れた歌であった。そのダイナミックな振幅に、15歳の頃の繊細な味わいは薄い。

いや、15歳の頃はやや薄味だったから日本人に受け入れられやすかった、ともいえる。それでも他と較べたら十分に濃いけれど。歌唱にしろ歌詞にしろ、妙にサラリとしていた。その後どんどん濃くなっていて、AAC、そして近作の愛のアンセムに繋がっていく。

薄さとか濃さってなんだろう。あっさりとこってりの違いは何なのか。歌唱においては、それはタメを作る事と後を引く事だ。

光のリズム感のよさは異常である。その自信が大きければ大きいほど、大胆にビートから遅らせたタイミングにメロディーを乗せてくる。Be My Lastなんか、タメにタメ過ぎていて完全に演歌である。まじ!?藤圭子といった所だ。(懐かし過ぎる)

そして引っ張る。Beautiful Worldのような快活なビートの曲ですら『It's only lo〜〜〜ve♪』とリズムを無視して伸ばしてくる。粘りとは"ついてくることついていくこと"であり、この粘り気は歯切れ(ついてこないこと)の対局にある。

一般論として、確かに加齢と共にリズムに対して粘りやタメが増えてくる。ベテランであればある程、焦らない。が、光の場合なんだか極端な気がする。一方でぼくはくまのようにあっさりした歌も唄ってよくわからない。

これ、別にイヤな事でも何でもないので今後もどんどん納豆のように粘っていってくれればいいんだけど、人間活動が長引いてきたら案外嗜好が戻って再び15歳の頃のようなあっさり感がやってきはしないだろうか。三十路女性の妖艶な声色と薄味であとを引かない歌唱のマッチングなんて面白そうだけどな…。

確かに、Passionを15の光が歌ったらどんな歌唱のアプローチになるんだろう、と書いた途端にSanctuaryを選曲してくるMy携帯には毎度ながら驚きを禁じ得ない。そうそう、Sanctuaryの方が更に粘っこく後を引く"濃い歌唱"で歌われているのだ。この曲自体は、調教のあまりしてないボーカロイドに歌わせても魅力的に響くメロディーなのだが、光の場合メロディー自体が薄いと感じると歌唱の濃さで中和しようとするのだろうか。そのまま溶けちゃえばいいのにね、と僕なんかは思ってみたりもするけれど。

なので、やっぱり光には時々真っ正面からソウル/R&Bを唄って欲しくなる。あの歌声自体には、このジャンルがいちばん似合うと思うから。演歌に転向するとか…ないよな…和服姿はみてみたいけどねん。


で、書き終わった瞬間にSanctuaryが終演、と。毎度ながら世界はよく出来ている。